川俣正(かわまた ただし)
2005年3月に東京芸大先端芸術学科を依願退職した直後、 横浜トリエンナーレ2005の総合デレクターに就任することとなり、一気に社会性(常識を持った一般市民社会人)を持たざるを得なくなった。それもかなり権力的な立場に立つということだった。社会的権力とその重責の中、それほど大きな問題もなく、トリエンナーレは閉幕した。そして私の責任も終了した。その後、逃げるようにヨーロッパに来て、そのままここに居座ることにした。ひとまずここで、常識人からの脱皮をリハビリしながら、次なる戦略をじっくり練っていきたいと思っている今日この頃です。


第12回  2008.3.10
2ヶ月ぶりにパリへ戻ってくる

先日、まだまだ肌寒い風が吹くパリに戻ってきた。
ほぼ2ヶ月以上の滞在となった東京での制作の日々に、一区切りをつけてのヨーロッパ帰国。この日記も、ヨーロッパに居てこそ「よーろっぱ日記」であるわけで、東京での謀殺された時間には、なかなか書けなかったのもそんな理由があったからだった。しかしそれは多分に言い訳にしか聞こえないだろうが、東京での生活は、都現美の展覧会が開催してからほとんど毎日が精一杯であった。手元にある手帳を取り出してぺらぺらと1月、2月のスケジュールを見ると、都現美オープン後のトーク・プログラムだけで7本、美術館以外で行なわれたシンポジウム、レクチャーが10本。その間に外国人コレクターを京都へ案内したり、横浜で行なわれる将来のプロジェクトの打ち合わせを何度となく行なったりしていた。

毎日つねに誰かと会うことが予定されていて、気が抜ける時間は、深夜のインターネット・カフェぐらいだった。確かにほとんど毎晩ここで一人の時間を過ごしていたような気がする。そこでは何をするともなく、ただボーッとした時間をパソコンの画面に向かいながら過ごしていた。これはパリの自分のアトリエに居る時に似ている。何をするともなくタバコを煙らして、煙が高い天井に向かって登っていくのを、ただぼんやりと見ているだけの時間。このような至福の時間を持つことができる場所は、東京では唯一インターネット・カフェだけだった。

そして現在パリに戻ってきて思うのは、あの途方もなく忙しかった東京での毎日は、いったいなんだったのだろうということ。今回の展覧会に付随するイベントや広報関係の取材に対応するのはしょうがないとしても、それ以外のことで多くの時間が費やされた。

いずれにせよ久しぶりにパリの我が家に戻ってきて重い荷物を整理し、いつものソファーに横になる。それから掃除、洗濯、買い物と徐々にいつものパリの生活へ戻っていった。久しぶりにボザール(Ecole des Beaux-arts)の自分のクラスに顔を出した。相変わらず閑散としていて、いつも来ている数名の学生がアトリエで作業をしていた。この閑散とした勝手さがいいのである。その後、隣のクラスの教授であるジャンルック・ビルムース(Jean-Luc-Vilmouth)と近くのカフェで、この秋に京都で行なうグループ展の打ち合わせをする。彼も私とともにこの展覧会に参加するアーティストだ。京都にあるいくつかのお寺を使っての展覧会で、今年が2回目となる。久しぶりにパリのカフェでくつろぎながら彼と話をする。

しかし、引き続きいろいろな打ち合わせやシンポジウム、トーク関連のイベントを東京で行なわなければならず、今月末に再度東京に戻らなければならない。そしてそれまでいくつかのプロジェクトのプロポーサルやら模型を作らなければならない。パリに戻ってきてまで日本の仕事を抱え込まざるを得ないこの状況は、はたして自分にとって良いのかどうか。この圧倒的なオーダーは、単純に自分が断れないからだと言えば、それまでかもしれない。如何せん、貧乏性のアーティストゆえ断りきれないのと、わずかにでも面白いことができるという期待感でどうしても安請け合いをしてしまうのだった。

こんなパリでの日々が3月の日記の内容なのだが、しかしこれから2ヶ月間の日記を、逆に読んでいただきたい。このページを開いて読んでくださる読者には、あまり真摯な書き手ではないかもしれないが、所詮日記というものが個人の記憶をたどって回想的に綴られるものであるなら、それがその日に起きた出来事であろうと三日前、三ヶ月前のことであろうと変わりないだろうという日記の掟破りを起してこれから綴っていこうと思う。
なぜならヨーロッパに居ての「よーろっぱ日記」だから。


第11回  2008.2.9
展覧会初日

毎日、木場にある東京都現代美術館に朝から夜までいる。
まだまだいろんなことを今回の展覧会に関わっているスタッフと、打ち合わせしなければならない。決して展覧会がオープンするまでのことが展覧会を行うということではないのは、一度でも展覧会をしたことのある作家であれば誰でも知っていることである。

展覧会オープンとともに、作品が閉じる。展示室に作品はあるが、静まり返って物音一つしない、してはいけない場として美術館の展示室がある。そこでおこなわれる「死んだ展覧会」。そんな展覧会ではなく、今まさにいろいろな活動が行われている現場であり、そしてつねに何かが起こっている現場が自分の考えている展覧会場である。可変的な展覧会場。幾様にも解釈ができ、いつまでも終わらない展覧会。いつ始まったのかさえ当事者ですら、わからない。日常的に行なわれているものごとの延長線上に今回の展覧会があるということ。ひと言でいえば「ライブな展覧会」ということなのだろう。そのような展覧会を今回は企画した。

しかし今回の展覧会に限らず、作品を展示することの前にまず作品というのはどのようにして出来るのだろうか。そもそも作品づくリのきっかけというのは、以前から作品の制作動機があるわけでなく、作品を展示する会場を見てそこから出てくるインスピレーションから、あらためて作品を考え始めるわけである。少なくとも自分はそのようにしている。つまり作品をイメージしてから作品のコンセプト(言葉)を考えるのである。同じように過去の仕事があって、今の自分の仕事があるというのではなく、その時々の場所の条件とか、いろんなことの中で作品は出来上がるので、自分の仕事を系譜立てて考えて行なってきたわけではない。自分は今まで、ただしたいことを、したいようにしてきただけである。

「昔の仕事というのは今、作られている」と言うこともできるだろう。
編集、解釈というのはそういうことを言うのではないだろうか。こうやって今展示しているものも、昔のものを持ってきて今編集しているからこのように設定されているわけである。つまり昔を今再解釈していることに他ならない。だから「過去」という発想は、自分にはない。つまり昔の仕事は自分も含めて今いる人たちが作っているということ。30年前にこんな仕事を始めて長年やってきたから今の自分がいるということではない。断じてそういうことではないと思う。自分の過去や今までの仕事を、今回の展示で簡単に総括されてたまるかという気持ちが、どこかにあるのかもしれない。そんなことを自分に言い聞かせながら忙しく展示会場内を行ったり来たりしていた。

今日(2月9日)は、東京都現代美術館で開かれる私の展覧会のオープニングの日である。相変わらず、すべてが完璧に行なわれているわけではない。そんな完璧さなど最初から求めていない。まだまだ日を追ってかたちづくられていくものばかりである。そんな雰囲気の中、関わっているスタッフは緊張した面持ちだがそれなりにリラックスしているのがわかる。午後から多くの美術関係者が集まりだした。展覧会へのかすかな期待と冷ややかな批評眼で神妙にベニヤ板で仕切られた細い通路伝いに展覧会場を巡っている。いつものことだがこのような時、当事者の作家は行き場がない。まるで裸にされて、隅々までじろじろ見られている感じである。こうなれば矢でも鉄砲でも持ってこい的な開き直りが必要になってくる。

展覧会場内にあるカフェでビールでも飲んで勢いをつけて、これから会うこととなる多くの人たちから発せられるこの展覧会に対する多くの質問に、備えようかと思う。

東京都現代美術館「川俣正〔通路〕」展 公式ホームページ
http://www.kawamata.mot-art-museum.jp/


第10回  2008.1.30
東京での制作

2007年末、そそくさと荷物をまとめ、冬枯れのパリをあとにして東京へ向かった。

パリの美術学校で学生に2ヶ月留守にすることを告げ、その間のカリキュラムを彼らと綿密に詰めて、学校のディレクターに報告すると、「作家活動の一環としての展覧会であるので、学校としても教師が作家であること、その作家活動を優先することが結果的に学校にとっても良いことなので、どうぞ行って来てください」との返答だった。なんと理解のあることだろうと、その懐の広さに感心した。

久しぶりの東京は、冬のからっ風が吹いて寒いがスカットした青空が気持ちいい。まだ正月気分がさめやらぬうちから今春に東京都現代美術館で始まる私の個展のための準備が始まった。

今回の展覧会のテーマ、キーワードは「通路」である。
1977年から2007年までの30年間の仕事を自分で振り返ったとき、自然と出てきた言葉である。しかし決して今回の展覧会を回顧展的なものにしょうとは思っていない。30年というのは結果的に今年がその年にあたっていただけのことで、計画的ではない。その時々の制作に明け暮れていたということである。だから30年という時間を、積み重ねた体積で感じるのではなく、あくまでも茫洋とどこまでも広がっていった制作場所と多くの見知らぬ人とのコミュニケーションの経験が、いつしか年を重ねていったまでのこだと思う。そして振り返ったらそこに「通路」制作者、川俣正がいたということ。

しかし「通路」とは、とても素っ気ない単語である。「パサージュ」などと都会的な哀愁あふれる言葉ではなく、アメリカのテキサスの荒野を突っ切る一本の高速道路のような感じの言葉である。あるいは土木建築にも通じる。道路を造る時によく見かける電動のマネキン作業員が旗を持った腕を無機的に振り、迂回を促す架設的に作られた「通路」のようにも見える。

なぜそんな言葉が今回の展覧会のキーワードになったのか。
それは横浜トリエンナーレ2005の総合デレクターとして9ヶ月間展覧会を組織していた時にさかのぼる。9ヶ月間何を考えて毎日横浜の会場となる倉庫に行っていたのかというと、人をどのようにここへ招き入れてどのような体験をさせるのかということをしつこいほど考えていた。それは、人の導線という流れをどのように展覧会場に引き入れるかということだった。そしてそのことが展覧会を作ることであるなら、人の導線だけで展覧会ができないだろうかと思った。そこから「通路」という言葉が出てきた。

しかし単なる通路ではなくて、いろんなところに出っ張りがあったり、人が溜まる場所があったりして、その中でさまざまなことを観客が体験していく。ただニュートラルな通路ではなく、いろんなことが毎日起こっている通路。そのようなものを作ってみたいと思ったわけである。

そんなことで、4x8寸(120x240cm)のベニヤ板を1000枚用意して、それを架設パネルのように両方から立て、その間に「通路」を作った。これが美術館の外からエントランス、展示室、図書室、美術館のバックヤードを抜けてサンクンガーデンまで続く長い通路となった。途中いくつかの広場があり、過去の模型やら写真などが展示してあったり、ベンチやテーブルが置かれて参加型のワークショップが毎日行なわれている。いわゆる騒々しく人が出入りしたり、大きな声で打ち合わせを行なっていたりする展覧会なのである。カフェもあり、ここではビールも飲める。展覧会場でアルコールが飲めるのはオープニングだけかと思っていたら、ここでは毎日カフェにマスターがいて、冷えたビールを差し出してくれる。
さて、こんな展覧会、いかがでしょうか?


第9回  2007.12.30
ニューヨーク、東京。

12月のパリは、クリスマス商戦のまっただ中で、どこのデパートもイルミネーションのオンパレードだ。街角には木造の小屋が立ち並び、そこでいろいろなクリスマスグッズが売られている。

そんな年末の慌しさが漂う中、来年以降に行なわれるプロジェクトの打合せが、このところ続いている。だいたいのプロジェクトが2年ぐらい先のものだ。だから作品が実現した時は、計画してすでに2、3年が経っていることになる。先日も2009年に行なうナントのプロジェクトの打合せがあり、日帰りで行ってきた。その他、ハンガリーのブダぺストやアイルランド、ダブリンでのプロジェクトも現在準備中である。

そうした中、ニューヨークのマンハッタンにある公園で、来年制作してほしいという依頼が来た。あまり計画している時間がないということもあり、現場視察と打合せをかねて、とにかくニューヨークに来てくれという依頼者側の意向で、すぐにパリから向かった。

久しぶりのニューヨークだった。80年代は滞在者として何年か過ごし、90年代はプロジェクトのため、この街を頻繁に訪れていた。その時とは街が、がらりと変わっているのに驚いた。確かに9、11(9月11日のテロ)以降のニューヨークは、人も街も何か変わった感じがする。街角もきれいになったし、グラフィティも消され、うさん臭い連中もあまり見かけなくなり、シックな感じの街並みになっていた。あのハチャメチャな80年代のニューヨークを知る者にとって、現在は少しおとなしくなったような気がする。そんなニューヨークの街中で、それもマンハッタンの中心に位置するマディソンスクェアー公園で、私のプロジェクトを行ないたいということだった。打合せは、プロジェクトを行なう場所が公園というパブリックな場所であるため、作品の構造的なことがもっぱらのテーマであった。いくつかの実務的なミーティングを終え、パリに戻った。

そして数日後、今度は東京に向かうことになった。2008年2月9日から開かれる東京都現代美術館での個展の打合せだった。長年東京に在住していた時にはオファーがなく、東京を去ってパリに住み始めたら東京の美術館から個展の誘いがきたわけである。何とも皮肉なものだ。今年の夏から数回訪れているが、そのほとんどが都内のビジネスホテルでの宿泊だ。30年住んでいた東京に滞在者として出戻り、ホテルに宿泊しながらこの街で作品を制作するということは、ちょっと不思議な感じがする。それはまたニューヨークで感じたのとは、また違う感覚である。

あらためて東京という街を作品制作のための対象として眺めることになったわけだが、今回の都現美での展示について今考えていることは、あえてサイト・スペシフィックな作品というのをやめようと思っている。なぜならいい加減このようなコンセプトのもと、地域性だの住民参加だのということに飽きてきたのである。以前の自分の仕事を否定するわけではなく、それとは全く別のことをしたいと思うようになったまでのこと。しかし自分の仕事から地域性や住民参加などを削除したら,いったい何が残るのだろうか?

それが今回の展覧会を行なうにあたって、自分に課したテーマである。1977年から2007年までの30年間を総括する展覧会ではあるが、新たな仕事の展開になればと思っている。とにかく、何度もこのような機会があるわけではないし、どうせやるなら30年間を振り返る回顧展のような、あるいは初老のインポテンツな作家然たることなどには、全く興味がないので、今までにやったことがないこと、そしてなにより面白いことをしたいと思うだけである。
さて、それはいったいどんな作品展示になるのだろうか?

次回のよーろっぱ日記を記述する時期には、明確になるはずである。


第8回  2007.11.30
制作と生活の日々(制作プランの発酵をひたすら待つ時間)

街並のプラタナスの木々が黄色く色づくパリの11月は、肌寒い風が吹き始める季節である。落ち葉が風で舞っている中、枯れ葉を踏みしめて、そそくさと家路を急ぐコートとマフラー姿のパリジャン、パリジェンヌが目立つ今日この頃。しかしこちらは相変わらず仕事と生活のため、毎日忙しい日々を過ごしている。プロジェクトの現場作業がない最近は、もっぱら家のアトリエで来年行なうプロジェクトのプランやマケットの制作をしている。この時期が自分の中で一番充実していながらも、一番困難な時間を過ごしている。なぜなら、これから行なうであろうプロジェクトのプランを頭の中でウダウダと練る時間だからである。当然、アルコールの量も増え、昼夜の区別がなくなる日々を過ごす。作品のプランは、そんな不規則で酔いが醒めてボヤッとした時間をある程度過ごしたのち、あるときふと思いつくのである。

以前、作家の制作態度に興味を持った時があった。スペインのピカソやダリと並ぶ20世紀を代表する現代作家ジョアン・ミロは、ネクタイをし、背広を着てブリーフケースを持ち、まるでサラリーマンが通勤するように毎朝自宅から電車に乗り、アトリエに通う日々を長年続けた作家だった。夕方、仕事が終わるとまた同じ電車に乗り、家路につく。そしてたくさんの子供や孫に囲まれながら大勢の家族とともに毎日を過ごしていた。そんな平凡な生活の中で、あのような彼独特の抽象絵画が生まれてきたのである。しかし最近晩年に多くの時間を過ごしたスペイン、マヨルカ島にある彼のアトリエの脇に、トイレと見間違えるくらいの小さな部屋があって、そこで彼は仕事に滅入ったとき、この部屋に閉じこもり、一人で悶々とした時間を過ごしていたらしい。普通の生活をしながら、制作におけるさまざまな悩みを持ち、ある時はここに駆け込んでいた生身の芸術家の苦悩する態度に、そしてそこから生まれる彼独自の作品に、芸術家ミロの偉大さを感じる。そんな大芸術家の作品とともに制作における人間的な側面を垣間みたとき、自分も同じ制作者の一人として、彼もやはり作品を生み出すことの孤独と苦しさを味わいながら仕事をしていた人並みの人間だったのかと嬉しく思った。

波瀾万丈で自堕落な生活を生き、自分の存在が社会の中で不適合であることが荒ぶる芸術家のステイタスであるかのような言動をする“芸術家肌”的な作家は、すでに時代遅れになってはいるものの、どこかでそのようなスタイルに酔いしれている人たちをまだ見かけることもある。毎日規則正しく、ルーティン化された生活をこなし、制作においては全く正反対の奇妙な精神的バランスの中で、未だ見たことのない作品を生み出していく強靭な創造力と集中力で日々制作している作家。その内部の危うい混沌とした状態の方が、見た目の芸術家肌な作家より、何か新たなものを生みだすことに真摯に立ち向かっているような気がする。もっとも、世界にはさまざまなアーティストがいて、それぞれ独自の制作態度があるわけで、他の作家のことを言うより自分自身のなかでそのように思っていればいいのであるが。

そして今日も自分はと言えば、散歩ついでに寄ったカフェで、昼からビールを飲み、パリの冬空を仰ぎ見ながら喉からこみ上げてくる炭酸の苦いゲップの中で、ひたすら新たな作品プランが発酵してくるのを待っている。そろそろ新しいアイデアが出てきても良さそうな感じなのだがなどと自分に言い聞かせ、すでに2杯目のビールを飲みながら、人が忙しく行き交う外の雑踏をボーッと眺めているのだった。



第7回  2007.10.12
パリの美術学校

今年の10月からパリの美術大学(高等美術学校)で教えることになった。

昨年、ここのある教授から学生とのワークショップを頼まれ、1ヶ月通った。その時に来年度の教授ポストがひとつ空いていて、現在公募をしているのだけれど受けてみないかといわれ、勧められるままに作品資料を提出し、面接を受けたら採用が決まったのだった。

週2回の授業は、東京の美術大学で教えていた時と同じだ。しかし「まず教師である前にアーティストであるべきだ」ということが、ここの大学ではより明確に位置付けられている。そして多くのインターナショナルなアーティストが教授として名を連ねている。だが、各教授と学校で会うことはほとんどない。もちろん作家として忙しいということもあるが、あまり双方干渉しないというルールがこの学校にはある。日本の大学のように教授会があり、すべての教師が一堂に顔を会わせるということもないし、教務の雑用もない。

何週間ぶりかに教授が学校に来るという連絡が学生のところにあっても、アトリエではなく、ほとんど大学近くのカフェにいて、学生といろいろ話し込んでいる。教師が身近な存在として気楽に学生と対応しているのが印象的だ。そして各教授が、自分なりの教え方で学生と接しているということが、ここでは当たり前のこととしてある。そんな雰囲気が良くて、ここでの教授職を引き受けたわけである。

17世紀から始まるこの美術学校の歴史は、多くの著名な美術家を輩出し、それはそのままフランス西洋美術の歴史を垣間見せてくれるものでもある。精緻な描写で有名な新古典主義のアングルや、ドラマティックな作風で19世紀の絵画サロンで活躍したロマン主義絵画のドラクロアなどが、教師としてここで教鞭をとっていたようだ。そんな美術史的なことよりもパリにある美術学校ということで、実にさまざまな国から毎年多くの学生がこの学校に集まる。ここでは基本的に英語とフランス語が堪能であることが求められる。それ以上にアーティストとしての修練を覚悟して来ることはもちろんであるが、すでにアーティストであるという自意識は、日本の美術大学の学生よりここに通う学生のほうが強く持っているように思う。

この美術大学は国立の高等美術学校なので、私は今年からフランスの公務員になったわけである。セーヌ川左岸のサンジェルマン・デプレにあるこの美術学校に何度か通い、いろいろな書類に目を通し、学生との面談などを始めてみて、久しぶりにまた大学の職に就いたという実感が湧いてきた。旅行者ではなく移住者としてこの国に入り、そこで職に就き、これから実際にここで生活していくのだということ。そして自分の国を離れ、他国に居着いてその国の公務員になったということを、重く感じた。しかし教師としての使命感はそれほどないものの、社会的な責任感がこれからどのように自分の中に、また対外的に出てくるのか。またそのとき自分はどのように対応していくのかということをしばし考えた。

一昨年東京の美術大学を辞め、横浜トリエンナーレのディレクターを全うし、逃げるように日本を離れフランスに住み始めたが、ここでもまた社会的責任を背負うような職に就くことになったのは、巡り合わせなのだろうか。結局どこに住もうが、生活するということからくる社会のルールと責任をすべからく持たざるを得ないのだということ。その中で自分の表現というものを社会に打ち出し、そのことから生じる軋轢の中で作品ができるのだということ。そんなことを授業が終わり、ひと息いれるために立ち寄った大学近くのカフェで、コーヒーを飲みながら思ったのだった。



第6回  2007.9.10 
スイスからの便り。


今年の夏のパリは、思ったより暑くはなく、肌寒いくらいの気候が続いた。
9月のこの時期になると、多くの人たちがそろそろバカンスから戻ってくる時で、町のデパートでは、子供たちの学校の授業開始に向けた文具のセールが始まる。そしてパリの町に、いつもの慌ただしさが戻ってくる。

そんなある日、スイスのツグ(Zug)の町からある招待状をもらった。そこは私が10年前、何度も通い続けて多くの作品を制作した町だった。毎年春にこの町を訪れ、何週間か滞在しながら町のいろいろな場所に、そこに見合うような作品を考え、設置してきた。ワーク・イン・プログレス(継続する制作)というスタイルで、毎年少しずつ町中に作品がつけ加えられていくプロジェクトであった。私のこのような作品制作を企画したのが、町にある小さな現代美術館だった。まだ若いが生真面目な館長が、私のこのような制作スタイルに興味を示してくれ、5年間続けることを約束してくれた。

チューリッヒとルツェルンの間にある小さな町ツグ(Zug)。日本人観光客が、スイスに来ると必ず立ち寄るルツェルン。そこに行く途中にある小さな町がツグである。格別にこれといった特徴もない、ただ通過する町に過ぎなかったこの町に、小さな現代美術館ができた。それはこの町に住んでいる何人かの美術愛好家の長年の夢だった。彼らは美術協会を設立し、町の民家を改造した小さな展覧会場で、実にさまざまな展覧会を行なってきた。

その美術協会が今年で50周年を迎えた。その記念に、名誉協会員を選出することになり、町の文化的な物事を積極的に取り組んでいった前町長と、長年ワーク・イン・プログレスのプロジェクトによって、町に新たな形のパブリックワークを手がけてくれた私に敬意を込めて、この美術協会の名誉協会員として選出してくれた。その選出報告が、パリの自宅に届いたのである。

実際、作品が設置されてから10年が過ぎようとしている時に、この町にある美術協会から思ってもみなかった名誉会員の推薦に、戸惑いとともにここでのプロジェクトの地元住民の理解と敬意を感じた。早々、彼らの意向を無にしてはいけないと思い、このことを快く受けることにした。

しかしこの作品がこの町に設置されてからの10年を振り返ってみて、思うところがある。木造の作品が屋外に設置されているため、3年もすれば部分的に朽ちてくる。時には破損することもあったろうがその度、美術館が作品のメンテナンスについて地元住民を集めて意見交換をし、この作品を残すことを決め、修復してきたわけである。木造の作品であるからこそメンテナンスが必要になり、美術館や行政が一方的にそれを行なうのではなく、作品が設置されている場所の近くに住んでいる住民の作品に対する考えを聞き、彼らが主体となって作品のメンテナンスを10年間続けてきたわけである。そのような経緯を持つ作品。所々に新しい材木で修理された作品は、古い家具を修理して何年も大事に使う彼らの物に対するこだわりを感じる。何でも古い物を使い捨て、つねに新しいもの、新鮮なものでなければ価値がないという「寿司のネタ」的な、あるいは「割り箸」的な日本の大量消費文化から見れば、このツグの町の人たちは、時代に逆行しているように見えるだろう。しかし、作品を制作する側にとっては、彼らのような人たちがいるからこそ、作品が残り続け、価値を生み出していくわけである。

私は、残ることを目的とした作品を作り続けてきた作家ではないが、残すことを彼らのようにこだわり、大事に扱ってくれる人たちがいることも、今回の名誉会員推挙の通知で知ることができた。そしてそれを有り難く思った。



第5回  2007.8.11 
パリでの生活。夏の過ごし方。


夏の日差しの照り返しが日増しに強くなるパリの8月は、バカンスに行けずじまいの人たちか、観光旅行客以外は、パリの町に人がいなくなり、どこも閑散とした感じになる。
6月までにほとんどのプロジェクトの制作が終わり、やっと少しは静かな時間が過ごせる時が来た。私も本来なら7月下旬からバカンスとして、スペインで夏を過ごすことになっていた。

5、6年前、初めて友人に勧められて地中海に浮かぶスペイン領マジョルカ島を訪れた。パルマの空港から市内を通り、1時間ほど内陸に入ったところにある貸別荘で、彼らとともに1週間ほど過ごしてみた。
はじめは、退屈なだけで何とも落ち着かなかったが、そのうち何もしないで、焼けるほどの地中海の日差しの下で、のんびり過ごす時間が何とも気持ちがよいことに気づき始めた。数十冊持ってきた本は、最初の数冊を読み終え、その後は部屋の棚に積まれたままになった。バカンス(vacance = 空白、空っぽという意味もある)ということが、どういう時間なのか次第に分かってきた。つまり全く空っぽの時間を作るということ。このダルな時間が、限りなく心地よく感じ始めた時には、すでに帰国の日がさし迫った時だった。そんなことでそれ以来、毎年ここに来ることになり、次の年には2週間、その次の年は3週間と滞在期間が延びていった。

そしてここ数年、夏はいつもこのスペインのマジョルカ島に行き、そこで何もしないで数週間を過ごすというのが定例になっていた。しかし、ここ数年、身辺的にいろいろなことがあり、行けずじまいになっている。パリでの生活も滞在許可書やら労働許可書など、住むことに必要な書類の提出や取得が必要になってくる。一時滞在とは違うオフィシャルなコントラクトが求められてくる。そのようなペーパーでの作業にけっこう時間が取られている。ただ毎年この時期になるとマジョルカ滞在中の友人から、今年は裏の畑で取れるトマトが抜群に美味しいとか、今ちょうど庭でバーベキューを始めたところだなどと、その都度の滞在経過報告が、嫌みを込めて私の携帯電話にかかってくる。パリでの生活が、いろいろなことで一段落する来年の夏には、またぜひ行こうと思っている。
 
そもそもなぜ住み慣れた町を捨て、パリに住み始めたのか?それはちょっとしたきっかけとしか言いようがない。ヨーロッパでの制作は、ここ20年ほど続いている。ほとんど年に数回ヨーロッパを往復し、アートプロジェクトをいろいろな国の町で手がけている。しかし、今までヨーロッパに住んでみようと思ったことは一度もなかったが、ある時あまりにも頻繁に日本との往復が重なり、身体的にもキツく感じられた時があった。その時期を境に、ヨーロッパに滞在する時のクオリティのことのを考えるようになった。仕事のためだけではなく、ヨーロッパに滞在するそのことの意味をもう少し考えて見ようと思ったのが、一つの理由かもしれない。

そしてあらためてヨーロッパに居着くことを決め、パリにアパートを見つけ、昨年の6月からそこに腰を落ち着け、新たな生活を始めた。
しかし、それはそんなに今までと違った生活でもなく、相変わらず忙しく、いろいろな国に行き、アートプロジェクトを展開している。唯一変わったことと言えば、以前より少しは個人的に過ごす時間が増えたということだろうか。
飛行機でその都度帰国する回数が減って、その分だけパリのカフェでのんびり過ごす時間が増えたということ。そして夏の蒸し暑い東京から、少しは湿度のないパリで夏を過ごすことが、自分にとっては例えようもなく清々しいことと思う今日この頃であった。



第4回 2007. 7. 11
北欧で、木の上に家(Tree house)を組み立てる


6月のヨーロッパ。春から夏に移行する時期。この時期はちょうど7月から始まるバカンスの前にあたり、人々のそわそわした雰囲気が、通りを行き交う中で感じる。私にとっても、一年のうちで最も忙しい時期でもある。多くの展覧会が、この時期に当ててオープニングを組むからだ。

フランスのナント、ドイツのパダボーンでのプロジェクトがオープンし、スイスのバーゼルでのプロジェクトを終えたあと、6月最後の作品制作となるノルウェーのトロンドヘイムへ向かった。

バーゼルから飛行機でデンマークのコペンハーゲン、スェーデンのストックホルムと2回乗り換え、ノルウェーの3番目に大きな町(オスロ、ベルゲェン、その次の町)、歴史的にはとても古い町で、静かな港町のトロンドヘイムに夜中9時ごろ到着した。空港を出た途端、まぶしい日差しが移動で疲れた目に飛び込んでくる。それにしても明るい。
まるで昼間のような明るさだ。これが白夜というものなのか。ホテルの部屋に入り、分厚いカーテンを閉めて、やっとのことでゆっくりすることができた。しかしその後2、3日は、やはり眠れなかった。夜中の12時を過ぎても、外はまるで日中のように明るいからだ。自分の体内時計が狂っているようで、寝苦しかった。

制作現場は、町の中心にある教会の前の公園。そこにある数十本の木の上に、小さな小屋をいくつか組み立てるのが、今回のプロジェクトだ。ここでの作品制作には、地元の建築大学の学生10数名が手伝ってくれた。いわゆるツリーハウスを、組み立てることだった。
この公園には、高さが10メートルほどにもなる木が何本もあり、小屋を組み立てるには、もってこいの場所だった。しかし、ここが町の真ん中で、一番人通りの多い通りに面しているという立地条件を抜かせば、どこにでもある子どもが喜びそうな木の上の小屋だったろう。このディスプレイスメント(場所や意味の入れ替え)が、今回の作品制作のテーマであった。
最初は、足場を使って5、6メートルの高さに登るのさえ躊躇していた学生が、1つ2つと小屋が出来上がるにつれて作業になれ、次からは少しずつ高いところでの作業を始めるようになった。しかし確かに危険な作業であったわけで、今にして思えば、彼らが高いところでの作業を、最後まで怖がって慎重に作業していた事が、最終的に大きな事故もなく作業を終えられた理由でもあった。

それにしても木の上の家というのは、北欧ではあまりにも普通に、どこででも見かけるものであるらしい。お父さんが子どものために、自分の家の庭に組み立ててくれたであろう木の上の小屋を、ノルウェーの人なら誰でも子供時代に経験している。しかしそれを公共的な場で、そして町の真ん中にある木々に組み立てたのである。当然、何人かの人たちから憮然とした反応をもらった。
「なぜ? なぜここに?」......というわけである。 しかし多くの人たちから「ここに、それもいくつも木の上に家を組み立てたということが、きわめて詩的で面白いね」という全く逆の反応ももらった。
そのようなことで作業後半には、学生がここで作業をしていることを自慢するかのように、通りがかりの人たちの質問に丁寧に答えていたのが印象的だった。

北欧で初めて実現したプロジェクトだったこの木の上の家作りは、ノルウェーの人たちの温和な性格によって、大きな問題もなく成し遂げられた。そして作業の時、ひとりで悦に入って何度も口ずさんでいた歌が、あのビートルズの「ノルウェーの森」だった。

ちなみにこのプロジェクトの制作記録は、下記のウエッブサイトで見ることができます。 www.generator2007.no




第3回 2007. 6. 11
パダボーン(Paderborn)のテラス


外は、夕暮れが暗さを増すときの慌ただしい人々の群れの移動が、この駅に満ちていた。パリから4時間かけて、ここドイツのケルンの駅に着く。
ここから作品設置を明日から行うパタボーン(Paderborn)という町へ行くため、ICE(Inter City Express)に乗りかえる。
このドイツの誇る高速電車は、日本の新幹線を押さえて北京に新設されることになった。ドイツの女性首相メルケルが、にこやかに中国の首相と語り合っている写真を新聞で見た。この電車の快適さは、レストラン車をつぶしてサラリーマンの通勤座席にしてしまった日本の新幹線より快適なことは、確かだ。

ホームに電車が滑るように入ってきた。ザワザワとみんな真っ先にレストラン車へと向かう。するとすでに何人かの乗客が、荷物を持参で席に着いている。
常連なのか、みんな考えることが同じなのか、電車がケルン駅を出る頃には、もう満席になっている。
無骨なドイツ人のウエイターが、メニューも満足に見ていないうちから注文を取りにくる。いつもメニューで困るこのような時は、迷わずグラージュスープを頼む。いわゆるビーフシチューである。どこにでもある最もポピュラーで
、それなりにお腹を満足させてくれる一品である。この暖かいスープを堅いパンと一緒に食べながら、流れていく外の風景をぼんやり見る。まわりの席は、新聞や雑誌に目をやるサラリーマンでいっぱいだ。電車の揺れが体に慣れてくる頃には、ちょうど乗り換えの駅に到着する時間になる。

ドイツの北東に位置し、ケルンから2時間くらいのところにある小さな町パダボーンで、私も含めて10名ほどの美術家が招かれ、この町のパブリックな場所で作品展示がおこなわれることになった。今年の6月に現地制作をすることに決めたのが、年も迫った頃だった。関係者の人たちから説明を聞きながら町を一回りして、ある場所に来た時、そこからの町の眺めが気持ちよかったので、この場所で何か出来ないかをプランすることにした。実は、彼らの町の歴史や建物の一つ一つの説明に、いい加減うんざりしていたので、全く別なアプローチを考えていた。つまり、その町やそこにある特定の場所の歴史性も意味性も無視したサイトスペシフィックな作品というのは作れるのだろうかを、ここで試してみたいと思った。

ドイツの人にとってパダボーンという町は、カソリック教徒の聖地であるらしい。きわめて宗教色の強い町。確かに巨大なゴシック建築の教会が町の中心に位置している。そしてそのまわりに、さまざまな宗教関係の施設が並んでいる。そんなこの町の唯一の特徴である宗教の歴史を聞いても、ほとんど興味がわいてこない。そうであるなら全く宗教とは関係なく、人がたたずむため、あるいは町をのんびり眺めるためだけの木造のテラスを組み立てることにした。どこの国であろうとも、どんな宗教であろうと、人がただ物思いにふける静かな時間を作ってくれる場所というのは、必要だと思った。

展覧会のオープニングの日、他のほとんどの作家がここの町の宗教的な背景からなる作品を展示していたのに対して
「ここでたたずんで下さい。皆さんがそのような時間をここで過ごすために、この作品を作りました」という私の作品の説明は、町の関係者にとって、あまりにも唐突に聞こえたようで、何とも納得できないという不思議な顔をしていたのが印象的だった。

「ただ、たたずむためだけの場」というのは、このパダボーンの町から出てきたアイデアというよりも、ヨーロッパに住み始めた現在の自分の心境が、実はそのような場を求めているのかもしれないとオープニングの次の日、パリへ戻る電車の中で思った。




第2回 2007. 5. 6
電車の移動で思うこと



4月から5月にかけて、ヨーロッパのこの時期の気候は、一年のうちで最も気持ちがよい。日差しが暑すぎるくらいに感じて日陰に入ると、突然ひやっとした寒暖の差に、体が一瞬硬直する。この感じが、なんともたまらない。空気が乾燥していて、梅雨のない北海道で育った自分には、とてもフィットする。カフェはどこも、誰でもがこの気候を謳歌できるように、外の通りまでテーブルとイスが出され、多くの人がのんびり腰掛け、初夏の日を浴びながら道行く人たちを眺めている。

しかし私個人は、カフェで、いつまでものんびりしていられない。今年の6月もフランスはもちろんドイツやスイス、ノルウエーでの制作発表が待ち構えている。
ヨーロッパではアートの展覧会のハイシーズンが6月と9月の2度あり、6月オープンに向けての制作がちょうどこの時期にあたる。カフェのカウンターでコーヒーをそそくさと飲みほし、電車に乗り込む。
スピードが徐々にあがり、見慣れた町並みから郊外に出ると、広い畑の一面に黄色の菜の花が咲いている光景が、目に飛び込んでくる。その新鮮な黄色は、徹夜明けのグタッとした体の眠気をさますのには、充分だ。

相変わらず、電車でヨーロッパ内をあちこち行ったり来たりしている。ヨーロッパのいろいろな国へ行く時は、飛行機より電車を利用することにしている。電車の車内からボーッと外を見て過ごす時間が好きだからである。
フランスの特急列車(TGV)は、オランダ、ベルギー、ドイツ、そしてイギリスを数時間で結んでいる。日本の新幹線気分で、隣の国へ行くことができる。 言葉も生活習慣も違う国へ数時間で着く。新たな国へ向かう電車の中では、今来たところの言葉と、到着地での言葉の2つが入り乱れて使われている。そこに英語が含まれ、3カ国語が堪能な車掌が、流暢に客の話し振りを先回りして、言葉を使い分けている。
ヨーロッパの多くの国が地続きであるからこそ、その国固有の政治的、社会的、文化的なアイデンティテイを各国が主張しあう。その違いの最たるものとして言語がある。以前は貨幣があったが、ユーロの導入により、ほとんど一律の貨幣になり、固有性が見えなくなった。もっとも、ヨーロッパ内を移動する者にとっては、いちいち各国の貨幣に変換する必要がなくなり、きわめて便利になったのは事実である。

そして各国間の移動については、幾多の歴史的な事件が、今まで数限りなく起こっているだろう。そして今も年間何百万人もの人たちが、ヨーロッパ内で移動を繰り返している。

電車が、今まさにベルギーとドイツの国境沿いを猛スピードで通り抜けようとしている。今この電車に乗り、窓ガラスに映る自分の顔を見ながら、自分もまた、その他大勢の移動者の中の一人であることを自覚する。

そんなことをボーッとした頭の中で、車内で繰り返し話されている3カ国語の会話を聞きながら、思った。




第1回 2007.4.9
地下30メートル下のシャンパン倉庫で展覧会が開かれる



シャンペン会社の地下倉庫での展示。

シャンペン、ポメリー(Pommery)と言えば、青いボトルの気品あるシャンペンで、ファッション雑誌などに有名映画俳優を起用して、派手に広告を打っている会社である。ここの本拠地、ランス(Reims)の町にあるシャンペン倉庫内、それも地下30メートルほどのところにある巨大なトンネル内でコンテンポラリーアートの展覧会が企画された。こうした展覧会は、ここで毎年行われているようで、今回で4回目になる。

パリから1時間半ほど東に向かって電車が走ると、ワイン畑が周りに広がってくる。シャンぺンというのは、ワインとほかの物を掛け合わせ、じっくりと寝かせながら、時折ボトルをまわして調合を見る。あの華麗な炭酸の泡作りに は、かなりの時間がかかるらしい。ランスには、ここポメリーを含めて、名だたるシャンペン会社が軒を連ねる。以前この町は、石灰石採集のために地下に多くのトンネルが掘られていた。その後、温度と湿度が年間一定に保つことのできるこのトンネルにシャンペン会社が目を付け、シャンペンの貯蔵庫として活用され始めた。
そしてランスの町は、シャンペンの町として18世紀頃から大きく変わっていった。この地域のある通り一区画に住んでいる人たちは、フランスでもっとも年間個人所得が高い人たちであるとポメリー の会社に行く道々、タクシーの運転手が話してくれた。

最初にポメリーの地下倉庫を見て、さすがにスペースの大きさ、雰囲気に圧倒 された。地下に降りていく階段が、いい加減長いなと感じるくらいのところで、巨大なトンネルの入り口に到着する。ここからアリの巣のように何本もト ンネルが張り巡らされている。一本のトンネルにしても何キロもあるらしい。ここに青いボトルに入って積み上げられた多くのシャンペンが 眠っている。

もちろん展覧会場としてこの全体を使うのではなく、最初の10カ所くらいの大きな空間を各作家に提供して、そこに作品を設置してもらうというものだった。特に30メートルもあろうかと思われるぐらい高い天井のある巨大な煙突 のようなスペースが印象的だった。薄暗い空間に30メートル先の天井に設置されてある小さなガラス窓から自然光が降り注いでくる。トンネル内に長くいる と、湿気で体中がしっとりとしてくる。この場所の持っている独特な雰囲気の中で、どのような作品がここに出来るだろうかとしばし考えた。


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