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川俣正(かわまた ただし) 2005年3月に東京芸大先端芸術学科を依願退職した直後、 横浜トリエンナーレ2005の総合デレクターに就任することとなり、一気に社会性(常識を持った一般市民社会人)を持たざるを得なくなった。それもかなり権力的な立場に立つということだった。社会的権力とその重責の中、それほど大きな問題もなく、トリエンナーレは閉幕した。そして私の責任も終了した。その後、逃げるようにヨーロッパに来て、そのままここに居座ることにした。ひとまずここで、常識人からの脱皮をリハビリしながら、次なる戦略をじっくり練っていきたいと思っている今日この頃です。 第12回 2008.3.10 先日、まだまだ肌寒い風が吹くパリに戻ってきた。 毎日つねに誰かと会うことが予定されていて、気が抜ける時間は、深夜のインターネット・カフェぐらいだった。確かにほとんど毎晩ここで一人の時間を過ごしていたような気がする。そこでは何をするともなく、ただボーッとした時間をパソコンの画面に向かいながら過ごしていた。これはパリの自分のアトリエに居る時に似ている。何をするともなくタバコを煙らして、煙が高い天井に向かって登っていくのを、ただぼんやりと見ているだけの時間。このような至福の時間を持つことができる場所は、東京では唯一インターネット・カフェだけだった。 第11回 2008.2.9 毎日、木場にある東京都現代美術館に朝から夜までいる。 第10回 2008.1.30 2007年末、そそくさと荷物をまとめ、冬枯れのパリをあとにして東京へ向かった。 第9回 2007.12.30 12月のパリは、クリスマス商戦のまっただ中で、どこのデパートもイルミネーションのオンパレードだ。街角には木造の小屋が立ち並び、そこでいろいろなクリスマスグッズが売られている。 そうした中、ニューヨークのマンハッタンにある公園で、来年制作してほしいという依頼が来た。あまり計画している時間がないということもあり、現場視察と打合せをかねて、とにかくニューヨークに来てくれという依頼者側の意向で、すぐにパリから向かった。 久しぶりのニューヨークだった。80年代は滞在者として何年か過ごし、90年代はプロジェクトのため、この街を頻繁に訪れていた。その時とは街が、がらりと変わっているのに驚いた。確かに9、11(9月11日のテロ)以降のニューヨークは、人も街も何か変わった感じがする。街角もきれいになったし、グラフィティも消され、うさん臭い連中もあまり見かけなくなり、シックな感じの街並みになっていた。あのハチャメチャな80年代のニューヨークを知る者にとって、現在は少しおとなしくなったような気がする。そんなニューヨークの街中で、それもマンハッタンの中心に位置するマディソンスクェアー公園で、私のプロジェクトを行ないたいということだった。打合せは、プロジェクトを行なう場所が公園というパブリックな場所であるため、作品の構造的なことがもっぱらのテーマであった。いくつかの実務的なミーティングを終え、パリに戻った。 それが今回の展覧会を行なうにあたって、自分に課したテーマである。1977年から2007年までの30年間を総括する展覧会ではあるが、新たな仕事の展開になればと思っている。とにかく、何度もこのような機会があるわけではないし、どうせやるなら30年間を振り返る回顧展のような、あるいは初老のインポテンツな作家然たることなどには、全く興味がないので、今までにやったことがないこと、そしてなにより面白いことをしたいと思うだけである。 次回のよーろっぱ日記を記述する時期には、明確になるはずである。 第8回 2007.11.30 街並のプラタナスの木々が黄色く色づくパリの11月は、肌寒い風が吹き始める季節である。落ち葉が風で舞っている中、枯れ葉を踏みしめて、そそくさと家路を急ぐコートとマフラー姿のパリジャン、パリジェンヌが目立つ今日この頃。しかしこちらは相変わらず仕事と生活のため、毎日忙しい日々を過ごしている。プロジェクトの現場作業がない最近は、もっぱら家のアトリエで来年行なうプロジェクトのプランやマケットの制作をしている。この時期が自分の中で一番充実していながらも、一番困難な時間を過ごしている。なぜなら、これから行なうであろうプロジェクトのプランを頭の中でウダウダと練る時間だからである。当然、アルコールの量も増え、昼夜の区別がなくなる日々を過ごす。作品のプランは、そんな不規則で酔いが醒めてボヤッとした時間をある程度過ごしたのち、あるときふと思いつくのである。
第7回 2007.10.12 今年の10月からパリの美術大学(高等美術学校)で教えることになった。 第6回 2007.9.10 スイスからの便り。
第5回 2007.8.11 パリでの生活。夏の過ごし方。
第4回 2007. 7. 11 北欧で、木の上に家(Tree house)を組み立てる
第3回 2007. 6. 11 パダボーン(Paderborn)のテラス
第2回 2007. 5. 6 電車の移動で思うこと 4月から5月にかけて、ヨーロッパのこの時期の気候は、一年のうちで最も気持ちがよい。日差しが暑すぎるくらいに感じて日陰に入ると、突然ひやっとした寒暖の差に、体が一瞬硬直する。この感じが、なんともたまらない。空気が乾燥していて、梅雨のない北海道で育った自分には、とてもフィットする。カフェはどこも、誰でもがこの気候を謳歌できるように、外の通りまでテーブルとイスが出され、多くの人がのんびり腰掛け、初夏の日を浴びながら道行く人たちを眺めている。 しかし私個人は、カフェで、いつまでものんびりしていられない。今年の6月もフランスはもちろんドイツやスイス、ノルウエーでの制作発表が待ち構えている。 ヨーロッパではアートの展覧会のハイシーズンが6月と9月の2度あり、6月オープンに向けての制作がちょうどこの時期にあたる。カフェのカウンターでコーヒーをそそくさと飲みほし、電車に乗り込む。 スピードが徐々にあがり、見慣れた町並みから郊外に出ると、広い畑の一面に黄色の菜の花が咲いている光景が、目に飛び込んでくる。その新鮮な黄色は、徹夜明けのグタッとした体の眠気をさますのには、充分だ。 相変わらず、電車でヨーロッパ内をあちこち行ったり来たりしている。ヨーロッパのいろいろな国へ行く時は、飛行機より電車を利用することにしている。電車の車内からボーッと外を見て過ごす時間が好きだからである。 フランスの特急列車(TGV)は、オランダ、ベルギー、ドイツ、そしてイギリスを数時間で結んでいる。日本の新幹線気分で、隣の国へ行くことができる。 言葉も生活習慣も違う国へ数時間で着く。新たな国へ向かう電車の中では、今来たところの言葉と、到着地での言葉の2つが入り乱れて使われている。そこに英語が含まれ、3カ国語が堪能な車掌が、流暢に客の話し振りを先回りして、言葉を使い分けている。 ヨーロッパの多くの国が地続きであるからこそ、その国固有の政治的、社会的、文化的なアイデンティテイを各国が主張しあう。その違いの最たるものとして言語がある。以前は貨幣があったが、ユーロの導入により、ほとんど一律の貨幣になり、固有性が見えなくなった。もっとも、ヨーロッパ内を移動する者にとっては、いちいち各国の貨幣に変換する必要がなくなり、きわめて便利になったのは事実である。 そして各国間の移動については、幾多の歴史的な事件が、今まで数限りなく起こっているだろう。そして今も年間何百万人もの人たちが、ヨーロッパ内で移動を繰り返している。 電車が、今まさにベルギーとドイツの国境沿いを猛スピードで通り抜けようとしている。今この電車に乗り、窓ガラスに映る自分の顔を見ながら、自分もまた、その他大勢の移動者の中の一人であることを自覚する。 そんなことをボーッとした頭の中で、車内で繰り返し話されている3カ国語の会話を聞きながら、思った。 第1回 2007.4.9 地下30メートル下のシャンパン倉庫で展覧会が開かれる シャンペン会社の地下倉庫での展示。 シャンペン、ポメリー(Pommery)と言えば、青いボトルの気品あるシャンペンで、ファッション雑誌などに有名映画俳優を起用して、派手に広告を打っている会社である。ここの本拠地、ランス(Reims)の町にあるシャンペン倉庫内、それも地下30メートルほどのところにある巨大なトンネル内でコンテンポラリーアートの展覧会が企画された。こうした展覧会は、ここで毎年行われているようで、今回で4回目になる。 パリから1時間半ほど東に向かって電車が走ると、ワイン畑が周りに広がってくる。シャンぺンというのは、ワインとほかの物を掛け合わせ、じっくりと寝かせながら、時折ボトルをまわして調合を見る。あの華麗な炭酸の泡作りに は、かなりの時間がかかるらしい。ランスには、ここポメリーを含めて、名だたるシャンペン会社が軒を連ねる。以前この町は、石灰石採集のために地下に多くのトンネルが掘られていた。その後、温度と湿度が年間一定に保つことのできるこのトンネルにシャンペン会社が目を付け、シャンペンの貯蔵庫として活用され始めた。 そしてランスの町は、シャンペンの町として18世紀頃から大きく変わっていった。この地域のある通り一区画に住んでいる人たちは、フランスでもっとも年間個人所得が高い人たちであるとポメリー の会社に行く道々、タクシーの運転手が話してくれた。 最初にポメリーの地下倉庫を見て、さすがにスペースの大きさ、雰囲気に圧倒 された。地下に降りていく階段が、いい加減長いなと感じるくらいのところで、巨大なトンネルの入り口に到着する。ここからアリの巣のように何本もト ンネルが張り巡らされている。一本のトンネルにしても何キロもあるらしい。ここに青いボトルに入って積み上げられた多くのシャンペンが 眠っている。 もちろん展覧会場としてこの全体を使うのではなく、最初の10カ所くらいの大きな空間を各作家に提供して、そこに作品を設置してもらうというものだった。特に30メートルもあろうかと思われるぐらい高い天井のある巨大な煙突 のようなスペースが印象的だった。薄暗い空間に30メートル先の天井に設置されてある小さなガラス窓から自然光が降り注いでくる。トンネル内に長くいる と、湿気で体中がしっとりとしてくる。この場所の持っている独特な雰囲気の中で、どのような作品がここに出来るだろうかとしばし考えた。 |
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