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ウォルター・マーチ『映画の瞬き 映像編集という仕事』復刊に寄せて

映画編集者、ウォルター・マーチによる名著『映画の瞬き 映像編集という仕事』がこの春、フィルムアート社より新装版にて復刊いたしました。『地獄の黙示録』『カンバセーション…盗聴』など、フランシス・フォード・コッポラとの共同作業において映画史にその名を刻むウォルター・マーチ。本書はしかし、たんなる「技術書」ではなく、「映像編集という仕事」を通じてひとりの映画人が積み上げてきた思考を、繊細かつドラマティックな筆致で綴った「詩篇」とも呼べる書籍でもあります。そんな本書の魅力について、自身もまた「映像編集という仕事」を手がける、映画評論家の荻野洋一さんにその魅力を綴っていただきました。

ウォルター・マーチ『映画の瞬き 映像編集という仕事』復刊に寄せて

荻野洋一

“古書価格高騰の名著が、新装版となって復活!” とめでたく銘打たれ、一冊の本が復刊したばかりである。現代ハリウッドを代表する映画編集者ウォルター・マーチ(1943年ニューヨーク生まれ)が著した『映画の瞬き 映像編集という仕事』という200ページにも満たないエッセーなのだが、これがすこぶる面白い。“映像編集のバイブル” とも賞讃される同書だが、この本の面白さの理由を実践ノウハウ的な役立ち具合だけに求めるべきではない。映画の編集とは何か、そもそも映画とは何かについて長期間にわたって重ねられてきた熟考からじわじわと搾乳された思考の墨汁が、本書の白いページというページを、目に見えぬ豊饒なる濃淡、明暗に染め上げているのだ。

名文の宝庫たる本書の、冒頭書き出しはこうだ。いわく「極端な例を観察した方が、その事物の本質をよりよく理解できるということが多々ある。たとえば水について知ろうとするなら、水そのものよりも、氷や水蒸気からの方が、より水の本質を見極めることができたりするだろう」。水というものを氷や水蒸気の側面から見ること──この冒頭の言葉がすでに著者ウォルター・マーチの思考を雄弁に物語っている。なぜなら彼は映画というものを、水やぬるま湯やお湯からではなく、つねに氷や水蒸気と共に考え、実践してきた男だからだ。『雨のなかの女』(1969)から始まり、超大作『地獄の黙示録』(1979)、近作の『コッポラの胡蝶の夢』(2007)や『テトロ/過去を殺した男』(2009)にまで至るフランシス・F・コッポラ監督との長い協働は、映画における「氷や水蒸気」の「極端な」様態に触れていく作業だっただろう。

興味深いことに、ウォルター・マーチは編集作業を立ったままおこなうのだという。編集は外科手術のようなものだからだそうだ。「椅子に座って執刀する医師を見たことはない。編集を料理にたとえることもできるが、コンロの前に座って料理をするコックもいないだろう」。通常の場合、映像の編集というのは今も昔も、椅子に座っておこなう作業である。筆者自身、テレビディレクターとして毎週、椅子に長時間腰かけてAppleのFinal Cut Pro(近年はAdobe Premiereに乗り換えたが)と格闘する日々を過ごしている。しかしウォルター・マーチは、編集機材を取り扱う作業者の上半身の身体所作が映画の時空間にとって重要な要素だと考えているようだ。時代がアナログからデジタルに代わって久しい。かつてマーチが愛用したムビオラやスタインベックといったプロフェッショナル向け編集機材の重厚な名器たちがもはや骨董展示場におさまり、現代ではコンピュータのノンリニア編集マシンがそれらに取って代わった。しかし編集機材を駆使しつつ、採寸し、切断し、縫合することには変わりがない。その一連の動作は、彼の言を借りれば「冷静なダンス」なのだ。「椅子に座ったまま踊り続けるダンサーもやっぱり見かけないでしょう?」

そして映像編集を経験したことのある人なら、実感をもって首肯するだろうが、かつてのリニア式の編集機を用いた作業にあって、私たち作業者に創造的な落雷、出会い頭の恩寵をもたらすのは、巻き戻しや早送りであったのではなかったか。素材のフィルムやビデオテープの中の目当てとなるカットのOKテイクに辿り着くまでには数分ぶん、ときには数十分ぶんの素材を猛スピードで巻き戻し、または早送りしなければならない。マーチは書く。「素材が10分ごとにフィルムに収められているので、必然的に作業中に巻き戻しばかりしているわけだけど、これはガーデニングにたとえるなら、土を耕して活気をあたえているといったところだろうか」。マーチのこの言はまことに卓見で、旧式のリニア編集でテイク探しの鬱陶しい早送りの最中に、「うむ?」と予想外のお宝テイクを見つけたり、天才的なカッティングを思いついたりしてしまうものなのだ。あんなに高速に早送りしているというのに、よくもめざとく見つけられるものだ。人間の網膜の偉大さよ! ……いや、網膜の性能がエラいのではなく、人間は知らず知らずのうちに映画の未知なる宇宙秩序に助けられているのかもしれない。マーチは諭すようにこう続ける。「どんなに学んだところで、映画の方が編集者よりもその言語にたけていることは言うまでもない。(中略)ピカソはかつて、“私は探さない、ただ見つけるのだ” と言っているが、これとまったく同じことだ」。

マーチは映画のフィルム編集ばかりでなく、音響編集(音声トラックの切り貼りやリ・レコーディング作業)の部門でも高い評価を得てきた技術者だ。1996年のアンソニー・ミンゲラ監督作品『イングリッシュ・ペイシェント』では、アカデミー賞の編集賞と音響編集賞のW受賞を果たしている(両賞の同時受賞は史上唯一)。ゴダールの「ソニマージュ」ではないが、映像と音は映画という車の両輪であって、マーチはこの両輪を切り離して考えることのしない人なのである。彼は若いころ、ミュージック・コンクレートに影響を受けたらしい。ミュージック・コンクレートとは20世紀中葉に興ったフランスの現代音楽ジャンルのことで、都市の騒音や自然音、人々の声に電子音やノイズを追加しつつ加工する音響実験である。

そういえば、私がウォルター・マーチという名前に最初に遭遇したのは中学2年の冬、『地獄の黙示録』日本公開前にリリースされた 2枚組サウンドトラック・アルバムを購入し、自宅で初めて鳴らした時だった。メコン川を遡行する米軍のボート上で兵隊たちが恐怖をかなぐり捨てようとして大音量で鳴らすローリング・ストーンズ「サティスファクション」はおそらく権利上の問題でこのアルバムに収録されておらず、未熟な中学生を大いに失望させた。その代わりにそこで聴かれたのは、挿入楽曲と劇中の音声トラックのうだるような夢魔的アンサンブルであった。ボートのエンジン音、ヘリのプロペラ音、ジャングルの訳の分からぬ生き物の鳴き声、マーティン・シーンやマーロン・ブランドの狂気を秘めたモノローグ、そして爆撃音とミックスされたワーグナー「ワルキューレの騎行」の音圧……。

フィルムと音響トラックをパラレルに採寸し、切断し、縫合しながら、登場人物の感情を最大限に立ちのぼらせる。まさに彼の編集者としてのキャリアは、全フィルモグラフィによって形成された、長大なミュージック・コンクレートではないだろうか? そしてその映画的ミュージック・コンクレート実践が、今こうして言葉の豊饒な群れに変身し、ページをめくる私たちを再び魅了しようとしているのである。