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書評『目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙』

2020年8月26日に発売された『目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙』。常にヘレン・ケラーと比較され育った視覚障害をもつ著者が、ヘレン・ケラーとの架空の対話を試みるために手紙を綴っています。多くの方にとって学習まんがや伝記の世界でしか知ることのなかった彼女の、新しい側面を知ることができます。今回は文筆家、翻訳家の野中モモさんによる本書評を公開します。

「史実を自分との関係から解釈し直す」新しい語りの試み

ここ数年、本でも映画でも、旧来の「伝記」とはちょっと違ったアプローチで実在の人物の生涯を紹介する作品に接する機会が増えている。たとえばきわめて私的なエッセイであると同時に、モダニズムの文豪たちの影に隠れた女性作家についての文学研究としても読めるケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』。往年の大女優ジュディ・ガーランドが亡くなる直前にロンドンで過ごした日々を想像し、どこまで本当だかわからないオタクの夢みたいな展開を見せる映画『ジュディ 虹の彼方に』。単純に自分が年齢を重ねて気になる人物・知っている人物が増えたから、というのもあるだろう。だが、いま、決してそれだけではない時代の気分が、こうした「史実を改めて検討し、自分との関係から解釈し直す」新しい語りを次々と生み出している気がするのだ。

理由として考えられるのは、まずSNSの流行などメディア環境の変化によって「何者でもない私」が公的に発信できる空間が切り拓かれ、これまで語られてきた「強者の歴史」を疑う視点を獲得する人が増えたこと。それに伴って、「実話」として知られている物語も往々にしてかなりの部分が大衆の欲望を反映して構築されたものであり、フィクションとノンフィクションの間にはきっぱり線が引けるわけではないのだ、という認識が広まったこと。主観と客観の区分けの危うさを承知のうえで資料にあたって想像の翼を広げ、自分にとってのリアリティを追求する語りはとてもスリリングだ。

ジョージナ・クリーグ『目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙』も、こうした潮流の一角に位置づけられる作品だと言えるだろう。ジャンルは「創造的ノンフィクション」。幼くして視覚と聴覚を失いながら、家庭教師アン(アニー)・サリヴァンの指導により言語を獲得し、大学に進学したのち著述業や講演活動をおこなったヘレン・ケラーは、日本でも「女性の偉人」としてまっさきに名前が挙がるような存在だ。その偉業は同じような障害を持つ者にとって希望であると同時に、達成不可能な高い基準を設定する苦しみの源にもなってきたと、自らも視覚障害者であるクリーグは指摘する。この本は、「なぜ、もっとちゃんとヘレン・ケラーのようにできないの?」という残酷な問いを繰り返しぶつけられてきた著者が、「理想的な障害者」として偶像化されてきたケラーの真の姿を探る調査と思索の道行きの記録だ。そして、それはケラーその人に宛てた手紙として綴られている。

ヘレン・ケラーは1880年にアメリカ南部アラバマ州の裕福な地主の家庭に生まれた。19世紀から20世紀をまたぐ、今からおよそ100年前の人生。1968年に88歳で逝去するまで、日本にも3回にわたって訪れている。彼女はその長い人生においてさまざまな興味深い事業に関わり、浮き沈みも体験してきたのだが、よく知られているのは映画や演劇作品として脚色された幼少期のエピソードである。実際、筆者もヘレン・ケラーと聞くと、小学生時代に熱中した漫画『ガラスの仮面』で、主人公の北島マヤとライバルの姫川亜弓が、舞台『奇跡の人』のケラーを熱演していた姿をまっさきに思い浮かべてしまう。

クリーグはそうした「天使のようなヘレン・ケラー」の物語から省かれがちな彼女の先進的な思想に触れ、ありえたかもしれない恋愛関係と性体験の可能性についても思い巡らす。自分にとってはこの本ではじめて知ることばかりだったが、とりわけ印象に残ったのは、ケラーが「社会貢献」や「慈善事業」として企画されるお堅い講演会だけでなく、もっと俗っぽいヴォードヴィルの巡業にも参加してスピーチをおこなっていたというエピソードだ。クリーグの筆致は、大戦間のアメリカ社会に渦巻く猥雑なエネルギーと、大衆を魅了するケラーの生命力を “まるで見てきたかのように” 伝えてみせる。

視覚障害の当事者であるクリーグは、光や色、動きを感じることはできるが、目の前にいる人の顔はわからないそうだ。彼女は主に触覚、加えて嗅覚によって知覚される世界がどのようなものかを巧みに言語化し、読者をヘレン・ケラーが生きたであろう時間と空間に連れて行く。サリヴァン先生を筆頭に、ケラーと彼女を取り巻く人々とのさまざまな思惑が交差する濃密なコミュニケーションの細やかな描写は、演劇を集中して観ているような感覚を喚起させる。そうして著者は自らをヘレン・ケラーという他者に重ね、その身体感覚を想像していくうちに、かつて激しい怒りを抱いていた人物を理解し、ある種の友情を築くに至るのだ。読者はその過程に同行することになる。それは視覚情報では捉えられない感覚の豊かさを知り、つるりとした優等生的な「偉人」のイメージを見直すための稀有な体験となるだろう。

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