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『人工地獄 現代アートと観客の政治学』「イタリア語版への序文」クレア・ビショップ

翻訳:大森俊克

以下は、2015年3月にルカ・ソセッラ社から刊行された『人工地獄』(イタリア語版)のために、著者であるクレア・ビショップが書き下ろした序文である。ビショップ氏の許諾を得て、英語の原文から日本語訳とした。彼女はここで、刊行後および執筆途中の段階で受けた、内容やアプローチ方法に関するさまざまな指摘や批評に対して、決して自己弁護に陥ることなく客観的な目で、応答となる見解を述べている。 この序文でビショップが提示する視点は、本書の内容に併せて、あらためて参加型アートや社会関与の芸術の今日における重要性、そしてその広範かつ多様なあり方を思考・議論していくことの必要性を、静かに訴えるものである。英語版の刊行からおよそ2年後に書かれたこの序文では、その間の時代的変化として、インターネットのSNSを介した参加や協働の興隆と、その可能性が語られている。短いながらも、『人工地獄』にあらたなアクチュアリティーを与える、その鍵となるテクストといえるだろう。

『人工地獄』イタリア語版への序文

『人工地獄』は、「参加」なるものの地殻変動――その見取り図である。芸術表現は本書において、遂行的(performative)な実践、そして払拭しがたい独自性を持つ政治的現実――これらの中間でたえず揺らいでいる。そしてまさにこれを理由として、本書には独特に入り組んだ不規則さがある。私は、本書をその章立ての順番に沿って読んでいく必要はまったくないと思う。ただし一部の人々はそうした読み方をして、のちに長く、そして緻密な思考による書評を書いてくれた。私はそのことに感謝している。この短い序文では、彼らが挙げたいくつかの論点を取り上げてみたい。

往々にして関心の対象となるのが、『人工地獄』における参加型アートの定義の広さだ。この定義の背景にあるのは、演劇におけるような「媒体(medium)としての人々」という考え方だ。ただしこの考え方はきわめて〔範囲が〕広く、収益が生じるパフォーマンスや、さまざまな形式のコラボレーションが含まれている。私が重要だと感じた事例をあつかうにあたって、欠かせないことがあった。

それは、教条的な定義を避けて、代わりに参加型アートの中心的な構成要素となる概念を布置していくということだ。これは結果として、輪郭のはっきりとした「参加型アート」という対象の代わりに、言説上の不確定な状態を生じさせた。こうした状態での対立した構造――能動と受動、個人と集団、倫理と美学、生産と受容――は、ときに境界があいまいとなり、またそうかと思えば、弁証法的な緊張関係へと至る。

この意味では、「委任されたパフォーマンス」を論じた第8章は明らかな例外だ。この章は、明瞭な(「プロジェクト」というよりも)パフォーマンスへと帰結するからだ。いっぽうで、この類いの表現が提起する多くの視座(とくに、アーティストにとっての社会経済的な――そして、自らのアイデンティティの一部をパフォーマンスとして提示すべく雇われた――「他者」を巻き込むという点)は、本書のそれ以外の箇所であつかわれる問いと相関している。つまりそれは、芸術作品の素材として人々を有用化すること、そして参加型アートの表現で包摂される対象と方法、さらには参加者と観者の関係性――これらについての問いである。

ある評者は、本書には主体の政治学が不在であると指摘し、美学と政治をいっそう説得力あるかたちで結びつける余地があると示唆した。私はそれ以前の著述で、主体性のモデルを体系化と価値措定の手立てとして、これに依拠していた。しかし参加の場合、そこで機能しているのは多様な主体性である。それは、先導者となるアーティスト、参加者、キュレーターやプロジェクトの企画者、そして参加しなかった人々だ。関係性という点からすれば、主体を規範とするだけでは不十分であるように思えた[1]。

また私には、本書全体の――地理、歴史、そしてイデオロギーという面でまったく異なる――コンテクストに対して、主体の政治学がなお適用されうるようには思えなかった。私が行なったケーススタディーの全体にわたって一定不変であるように思われたものは、定義可能な実体というよりも、言説における対立関係だ。私はこの点において、視点の統一性が欠けているとして『人工地獄』を批判する人々にまったく同意する。参加型アートは、政治、倫理、そして美学の間にあって、つねに安定することはない。それは20世紀全体にわたって、私たちの未来像の明瞭さを決定的に奪い去ってきたといえるだろう。

ダンスとパフォーマンスを研究する批評家たちは、本書に対して興味深い指摘をした。ある評者は、教育とはダンスにおいて(ひいては、演劇やパフォーマンスにおいて)もっとも際立った視覚的体験なのであり、教育は「観られることを前提とする」という見方をした。この人物はその見解によって、第9章において私の分析全体が依って立つ前提に、揺さぶりをかけた。また別の者は、私が時間という属性を充分に考慮していないと指摘した。それゆえ――20世紀の芸術を演劇によって読み解くという本書の試みに反して――視覚を介した記録への私の関心が、結局は参加に対して、「語り」に基づく形式ではなくむしろイメージに基づく活動という性質を与えていると言うのだ。

これは示唆に富んだ批判であり、また第9章に取りかかる時点で私が意識する(そして活かそうとする)ようになった点だ。参加型アートには、「語り」という媒介的な手法について問われるべききわめて多くの点がある――このことは明らかだ。いかにプロジェクトは、個人に根ざした経験を超えて二次的な鑑賞者のもとに届くのか。いかに私たちは、重要性を持つ比較史(comparative history)のためになお筆を執りつつ、美術史家の伝統的な役割に揺さぶりをかけることができるのか。

これらは、よく聞かれるもう1つの問いに結びつく。それは、いかに参加者のいっそう多くの「語り」を汲み上げるかということだ。この問いへの私の応答が引き出されたきっかけは、トーマス・ヒルシュホーンが2011年のヴェネツィア・ビエンナーレに際して私にカタログへの寄稿を依頼したときだった。私は、2009年にヒルシュホーンが〔第9章で論じられた〕「ベイルマー・スピノザ・フェスティバル」を開催したアムステルダム郊外のベイルマーに戻り、できるだけ多くの参加者を見つけ出すことにした。私は最終的に6つのインタビューを行なったが、それは評価軸を打ち立てる多岐的なデータ収集の方法とはまったく異なり、オープン・エンデッドな対話というかたちをとった。そしてそのインタビューは、多声的なドキュメンテーションと批評家/歴史家の使命の違いを浮き彫りにするという貢献を為した[2]。

これらのインタビューは、私がすでにうすうす感じていたことを再確認させてくれた。つまり、参加者は十人十色の参加理由を持っており、彼らはプロジェクトへの参加に喜びを感じてはいながらも、アーティストを嫌い――そしておそらくはその表現を批判していたということだ。しかし、さらなる「語り」を付け足すことは――いっぽうでそれは「ベイルマー・スピノザ・フェスティバル」の歴史化の役に立ったかもしれないが――プロジェクトを参加型アートとしていっそう有意義に歴史化するために役立つことはなかった。

なぜかというと、参加型プロジェクトによって構築される類いの社会的な関係性は、それが文化において重要であることの証しとはならないのだ。むろんこうした主張は、私が批評家や歴史家の大義名分を(自己中心的に)振りかざしているとして批判の矛先をこちらに向ける人々に、いっそうの根拠を与える。しかし私は、次のように確信している。つまり、多くのプロジェクトに時間を費やした者のほうが、たった1つのプロジェクトに集中して取り組んだ研究者よりも――さらには、伝統的な媒体(絵画、スカルプチュア、写真)に特化した美術批評家よりも――比較分析に長けているのだと。

しかしそうは言っても、インタビューは個々の表現の記録手段という重要な領分を支えている。その手段には、写真や日記、逸話、出版物、映像、ウェブサイトやリエナクトメント(再演行為)といったものも含まれるだろう。『人工地獄』が出版されたのち、私はあることに気づいた。それは、自分がドキュメンテーションというものを妄信する人物だと思われているということであり、そしてドキュメンテーションは、美術館やマーケットとの協働と同程度に悪しきものと考えられているのだ。しかし作品にとって大切なのは、じかに参加した人々だけではなく、二次的な鑑賞者にも訴えかけることである。

なぜなら第一に、プロジェクトはときにそれ自体がのちに残すものが考慮されるとき、もっとも強固なものとなるためだ。のちに残されるものが、理解の幅や奥行きを生み出すのである。そして第二に、もし私たちが参加型アートについての知識を次の世代に伝えなければ、代わりに待ち受けている先行きはあまりに暗いということだ。その先行きとは、一握りの特権的な集団と投資家が買い求める作品、1パーセント〔の市民〕のための贅沢品、投機的な投資のための資産や利益を中心とする、そうした21世紀前半の美術の歴史だ。

読者は、『人工地獄』の「結論」に〔著者の〕諦観やもどかしさを感じるかもしれない。私が「結論」を書いたのは、2011年の3月のことだ。この数ヶ月後に、「ウォール街を占拠せよ(Occupy Wall Street)」という理想主義的な運動が起こった〈1〉。私の学生たちのうち数人は、『人工地獄』が「ウォール街を占拠せよ」の前夜の気運をつかみ取っていたのだと考えた。この著作に列挙されているプロジェクトが、芸術によるアクティヴィズムのあらたなモデルの基盤を築いたと、そう解釈したのだ[3]。確かに「ウォール街を占拠せよ」における占拠と拒絶の美学は、私たちが「ポスト」(ポスト植民地主義、ポスト共産主義、ポストモダニズム)に支配された時代を超え、そして予期されるデジタルの未来へと至るにあたり不可欠な、「感性的なものの分有」となる。「ウォール街を占拠せよ」における参加の精神は、待ち受ける次の世代へと、バトンのごとく本書の「結論」をパスするだろう。そしてこの次の世代が、続く今世紀における政治的な美学のあり方を定めていくはずだ。

クレア・ビショップ
2014年夏 ダブリンにて


[原註]
[1]例として以下を参照。Claire Bishop, ‘Antagonism and Relational Aesthetics’, October, no.11, Fall 2004, pp.51-79〔クレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」星野太訳、『表象05』、表象文化論学会、75-113頁〕; Installation Art: A Critical History, London: Tate Publishing, 2005.
[2]Claire Bishop, ‘And that is what happened there’, in Thomas Hirschhorn: Establishing a Critical Corpus, Zurich: JRP Ringier/Venice Biennale, 2011, pp.6-97.
[3]これは、「ウォール街を占拠せよ」を芸術表現としてとらえたという意味ではなく、この運動によって生起した芸術の手立てを看取したということである。

〈訳註〉
〈1〉アクティヴィズムの思想誌『アドバターズ』による2011年7月の呼びかけを発端として、ニューヨークからアメリカの各都市に飛び火した、一連のデモ活動とその合い言葉。北米の収入格差と富裕層への資産比率の偏り、若者の雇用不安などから、フェイスブックやツイッターなどを通じて急速に広まった。2011年9月にニューヨークのズコッティ公園からウォール街に至る1000人規模のデモが皮切りとなり、2012年9月前後に収束するまでに多くの逮捕者や著名人の賛同者が出た。