2025年6月26日発売の『アクティビズムのアート/アートのアクティビズム──「抵抗する表現」の軌跡と行方』。シチュアシオニストからブラック・ライブズ・マター、さらには今日に至るまでのアート・アクティビズムの歴史的な歩みをたどり、「幽霊」となった過去のアーティスト/アクティビストによる実践の記憶に、未来の可能性を見出す一冊です。
今回は、演出家・アーティストの高山明さんによる書評を公開します。著者グレゴリー・ショレットによるテキストを緻密に読み解き、「誰もが使える」本書の魅力と、演劇人ベルトルト・ブレヒトによる「やり直し」=歴史の再生との共通点を探ります。
ショレット氏は本書において、「抗議をアートとして遂行するアーティストと、抗議として美的手法を採用するアクティビスト」の起源を、一九六〇年代のギー・ドゥボールとシチュアシオニスト・インターナショナル(SI)としている。彼らの理論と実践が著者のバックボーンの一つとしてあり、それを更新しようとする意志が本書全体を貫いている。独特なのは、SI以降のアート・アヴァンギャルドの軌跡を「あまりに首尾よくやってきた」と捉えていることだ。「現代の資本は、二〇世紀初頭にダダイスト、未来派、シュルレアリストが企てたように、マスメディアを利用して人々を混乱させ、衝撃を与えている。政治的に急進的だったこれらのムーブメントに外見上似通った、不協和な画像の並置やフォトモンタージュが、広告やその他のメディアで多用されていることに」、著者はアヴァンギャルドの勝利を見るのだ。では勝利の結果、何が起きたか。「資本主義のヘゲモニーが見事なデザインプロジェクトに変化」し、著者が「非現在」と呼ぶ「また平常に戻るという(偽りの)約束さえ存在しない社会的災難の状態」をもたらしたのである。この歴史的状況を、著者は「資本主義の社会経済的最高傑作」と特徴づけてさえいる。
このように優れて複眼的な視点は本書の随所に出てくるのだが、抗議運動の先鋭的手法を再利用しているのが資本主義社会であり、さらに「台頭するオルタナ右翼運動が、左派の社会運動で生まれたアクティビスト文化の形式を露骨に流用している」ことへの危機感が、著者に本書を書かせたと思われる。換言すれば、体系的に収集も展示もされず、「幽霊(ファントム)」のように彷徨う数々の社会実践の痕跡を、「以前は秘められていた創造的労働の膨大な蓄積」を、どうすれば抗議するアクティビスト・アーティストの手に取り戻し、再利用することができるかという切迫した問いである。
ではなぜ再利用することが重要なのか。著者は「アートのリサイクルという実践」が、具体的には過去のアートの「回収と再解釈のプロセス」が、「現代の抗議文化の中心」になっていると指摘し、そのことで「公共空間から消失していたり封印されている過去のコンテンツが、現在に回収され、再活性化しているのだ」とする。非常に重要な指摘だと思う。加えて、私が何度も読み返してしまったのは、ここからさらに奥に分け入っていくような、少し謎めいた以下の文章だった。二〇一一年にスペインで起こった運動(15-M/Los Indignados)を評したものである。
自由の束縛に対するダークマター・レジスタンスの余剰アーカイブから、硬直的にではなく創意を凝らして多様性を引き出し、批評的な解釈や再利用によって称揚し、活用する。この下からのアーカイブに本質的な「不確定性」こそが、進歩志向のアクティビスト・ アーティストを批判的記憶の政治へと導くものだ。(本書177頁)
実は私は著者にニューヨークで会ったことがあり、ディナーをご一緒し、その後何度かメールのやり取りをしている。そうした個人的体験が、この文章を読むと言葉の一つ一つから思い出され、ショレット氏の明るさ、奥深さ、強さ、優しさ、不思議さのようなものを感じるのである。推薦文には相応しくないかもしれないが、私なりに上の文章を解読してみることにしよう。
「ダークマター」とは著者が発明した用語で、「主流の美術史のなかで長い間隠されてきた創意に富み芸術的な労働の大部分」を指す。そうしたものを宇宙の大部分を占めているのに実体としては掴めない「ダークマター」に準える感覚は、集団的で反抗的な挑発行動を内に孕んでいる。「硬直的にではなく創意を凝らして多様性を引き出し」という部分には、原理的なところに閉じず、正しさを基準に排他的になることがないよう、大らかさをもって人や物事に対している態度が伝わってくる。「この下からのアーカイブに本質的な『不確定性』」という言い回しには、歴史化されていないからこそ本質的に確かになり得ない歴史への理解と、その不確かさへの敬意、さらにそこにこそ可能性を見出そうする革新的な姿勢が明らかに見てとれる。そういう人物だからこそ、「批判的記憶の政治」という言葉が出てくるのだろう。ショレット氏はアクティビストとして現実を変えるだけでなく、虐げられた記憶に再生の場を与える政治に与しようとするアーティストなのだ。再利用が重要になるもっとも深い理由はこの政治性にあるのでないだろうか。主流なものの影に隠され、または追いやられ、幽霊のように行き場をなくした記憶は、私たちによってやり直されなければならないのだから。
そのために著者は本書でどんな工夫をしているのか。いわゆる美術史でやられているようなカテゴリー分類や体系的な記述ではなく、「幽霊(ファントム)アーカイブ」と名付けられた貯蔵庫の「目録」作りが目指されている。著者自身が引用している「歴史は無限の痕跡を残すがその目録は与えてくれない」というアントニオ・グラムシの言説への応答でもあるのだろう。さらに、読者が使用することのできる小さな本にしようという意識が感じられ、そのおかげで本書は大著になることを免れ、使い勝手のよい「ハンドブック」になった。このハンドブックの中身は異様に濃い。紹介されている事例や固有名詞はかなりの数にのぼり、シチュアシオニスト・インターナショナルからブラック・ライブズ・マターまで、アクティビズム・アートの実践の歴史が圧縮されている。それらを単なる羅列に終わらせず、アクセスする人が「再生、再目的化、再活性化という推測を要するプロセス」を踏めるよう、著者は理解を助けるいくつもの用語を発明し、それらを補助線に、社会的・政治的文脈の中に位置付け直していく。その手捌きと表現が見事で、著者の長年にわたる実践と思索の豊かさを感じさせるものばかりだ。たくさん引用したいところだが、ここでは一つだけ例を挙げるにとどめよう。
OWS(「ウォール街を占拠せよ」)は、究極のモックスティテューション、つまり、戦術的に組織されたミニチュアの都市、あるいは実際の大都市の内部に突然出現したゴースト・シティと考えられるかもしれない。それは、連日連夜想像できるあらゆる方法で都市につきまとい、悩ませた。まずズコッティ公園を離れることを拒否し、次に一連の要求を当局に提示することを拒否した。もしその要求がなんらかのかたちで満たされれば占拠の終わりにつながってしまうからだ。OWSは招かれざるポルターガイスト機関であり、もっぱらその非現実感のおかげで盛り上がり、大衆スペクタクルの美学を一時的に支配した。(本書147頁)
「モックスティテューション」とは著者の造語で「偽機関」を意味する。OWSをポルターガイスト機関と捉え、戦術的なミニュチュア都市、さらにはゴースト・シティに例える視点は斬新かつ鮮やかである。知識としてあったOWSのイメージが異化され、ニューヨークに突然現れた運動の見え方が変わり、解像度が格段に上がった。私はこの文章を読んで、究極の「都市演劇」に触れたような高揚感を覚え、自分自身の関心のあり様を再認識させられた。
このように信頼のできる目録があれば、読者は自分の興味関心に従って個々の事例を調べていくことができるだろう。「それらは、最も簡単なオンライン検索操作によってアクセス可能」だからだ。しかし、「このアーカイブは、民主主義を支持し、人種差別に反対するアクティビストだけでなく、それとは正反対の、たとえば国家主義や愛国主義を装ってファシズムを新たに蘇らせようとする世界的な動きなど、反動的な政治勢力にも開放されている。」だからこそ本書が必要なのだ。
最後に少し個人的なことを書くと、私は演劇に携わっている人間で、二〇世紀ドイツの演劇人ベルトルト・ブレヒトから大きな影響を受けてきた。本書でも度々言及されたヴァルター・ベンヤミンは、友人でもあったブレヒトを「やり直しの名人」と評した。ベンヤミンの慧眼はさすがと言うより他なく、ブレヒトの特徴をこれ以上に言い当てた言葉を私は知らない。実際、ブレヒトは既知のものを未知のものに変える手法を考案し続け、人々が知っていると思い込んでいるが故に知らないことを「再発見」させ、「再生」させることに心を砕いた。当然ながら、新しいものをオリジナルなものとして提示することにブレヒトの関心は向かわなかった。どうせ変わらないと思われている現実や、すでに確定したことになっている歴史(過去)を、いかにして「新たに始める」ことができるか。ナチスに抗う武器として演劇を使おうとしていたブレヒトにとって、現実の変革と歴史の解放は切っても切り離せないものだった。「やり直し」はそれらを交差させる政治的振る舞いであると同時に、ブレヒト流の闘争の方法だったのである。
ショレット氏の『アクティビズムのアート』にブレヒトは出てこない。しかし、私にとって本書は、幽霊となったアクティビスト・アートの圧縮された歴史の目録であり、「やり直しの名人」になるための、誰もが使えるハンドブックなのだ。私もこの本を手に、ますます主流派の演劇やアートの外へと出ていくことになるだろう。
高山明(たかやま・あきら)
演出家・アーティスト。演劇ユニットPort B(ポルト・ビー)主宰。国内外の諸都市において、ツアーパフォーマンスや社会実験、教育事業や都市プロジェクトの立ち上げなど、多岐にわたる活動を展開しているが、いずれの活動においても「演劇とは何か」という問いが根底にあり、演劇の可能性を拡張し、社会に接続する方法を追求している。近年では、より公共性が高く、プロセスにおける生成変化を重視する方向へと転回し、「新しい公共劇場」構想を始動。劇場を芸術鑑賞の場から解放し、「プロジェクトの孵化装置」として機能させる実験を進めている。著書に『テアトロン―社会と演劇をつなぐもの』(河出書房新社)など。
書籍情報
アクティビズムのアート/アートのアクティビズム
「抵抗する表現」の軌跡と行方
