ためし読み

『読者に憐れみを ヴォネガットが教える「書くことについて」』第25章 プロット

第25章 プロット

読者に本を読み続けてもらうにはどうしたらいいだろう?
『母なる夜』の語り手ハワード・キャンベルがそのヒントを与えてくれている。

 私はまったく動けなくなった。
 私を動けなくしたのは、罪悪感ではない……
 私を動けなくしたのは、恐ろしい喪失感ではない……
 私を動けなくしたのは、死に対する嫌悪ではない……
 私を動けなくしたのは、不正に対する悲痛な憤りではない……
 私を動けなくしたのは、自分はまるで愛されていないという思いではない……
 私を動けなくしたのは、神は残酷だという思いではない……
 私を動けなくしたのは、どの方向へも動く理由がまったくないという事実だった。それまでの死んだように無 意味な長い年月のあいだ、私を動かしてきたのは、好奇心だった。[太字は筆者による]

読者が本を読み続ける理由も同じだ。
プロットとは、物語全体の構想、あるいは構造を指す。どんなプロットも、読者の好奇心をかきたてられるかどうかが重要なのだ。

ヴォネガットの「文芸創作基本ルール」第三条

すべての登場人物には、一杯の水でもかまわないので、何かを欲しがらせること。

登場人物の誰かが何かを欲しがれば、それがどんなものでも、読者の好奇心をかきたてる。サスペンスも生じる。その人物は欲しがっているものを手に入れられるのかどうか、知りたくなるからだ。

ヴォネガットは私たち学生に、たとえ小さな問題でも、読者が読み続ける理由になると説いた。私たちのクラスに、ひとりの修道女がいて、自分と同じ修道女の登場する小説を書いた。そこには、その修道女の歯にデンタルフロスがはさまって一日じゅう取れないという状況が書かれていた。はたして彼女はそれを取り除くことができるのか? ヴォネガットはそれが気に入った。それ以降ずっと、その小説のその小さなエピソードを使って、サスペンスやプロットについて論じた。たぶん、歯にはさまったフロスへの好奇心のせいでその小説に引きこまれたことに、自分でも驚いたのだろう。

その小説を読んだ者は誰でも、口の中を指でほじくらずにはいられなくなる。[……]プロットを排除したり、登場人物の欲望を排除したりすると、読者を排除することになる。それは作家としてあるまじき行為だ。

もっと複雑なことや重大なこと――たとえば、その修道女がガンと闘っているとか、依存症を治したがっているとか――が起こってもかまわないが、この「はたして彼女は自分の望んでいるものを手に入れられるかどうか」という土台があってこそ、その上にもっと複雑なものが築けるのだ。ヴォネガットはこういっている。

請けあってもいいが、どんなに現代風の小説でも、たとえプロットがないといわれる小説でも、よくある昔ながらのプロットをどこかにまぎれ込ませないと、読者はほんとうに満足しない。私がそういうプロットをすばらしいと思うのは、人生をうまく表現しているからじゃない。読者に本を読み続けさせる力があるからすばらしいんだ。

そして、「よくある昔ながらのプロット」の例をいくつかあげている。

誰かがトラブルにおちいって、やがてそこから抜け出す。誰かが何かを失って、それを取りもどす。誰かが不当な扱いを受けて、復讐する。シンデレラのように、不幸な境遇にある者が一躍脚光を浴びる。誰かの運が傾いて、そのままどんどん落ちぶれていく。誰かと誰かが恋に落ちて、ほかの大勢の人々に邪魔される。高潔な人物が誤って罪に問われる。あくどい人物がまわりから高潔な人物だと思われる。誰かが勇敢に困難に立ち向かい、成功するか失敗する。誰かが噓をつく。盗みをする。殺しをする。密通をする。

ひとつの核となる葛藤が物語の構造の中心となる。

物語に葛藤がなければプロットはないも同然だ。

動機と葛藤は物語をスタートさせ、動かし続け、特定の形に作り上げる原動力だ。

私が初めて文芸創作の授業を受けたのはアーカンソー大学で、講師は作家のウィリアム・ハリスンだった。彼はある古典的な短編小説のプロットを図式化して黒板に書いた。それは、平地から山を描くようなグラフで、最初はグラフの線が頂点に向かってジグザグに上がっていき、頂点まで達すると、一気に半分くらいの高さまで下がる。こういう図は今日でも文芸創作の教科書で見かけることがある。

その図を学術的に説明するとこうだ。プロットは、提示部、複雑化または上昇展開部、転換点またはクライマックス、大団円から成る。

提示部では葛藤の種がまかれる。葛藤は複雑な状況や抵抗によって激化していく。転換点あるいはクライマックスとは葛藤が頂点に達したときで、なんらかの洞察や悟りが得られる。そして決断がなされたり、行動が起こされたりして、根本的な葛藤が解決されたり受け入れられたりする。大団円は物語の大詰め、幕切れだ。

古典的な短編小説は幾何学の証明のようだ。それか、くしゃみのような感じ。ハー、アー、ハー、アー、アー、アー、アーックション! 最後にちょっとしたしぶきとともに回復が、あるいは快感がもたらされる。

小説の大半は状況があっちへ行ったりこっちへ行ったりの紆余曲折から成る。

読者を居眠りさせたかったら、登場人物同士が決して対立しないようにすればいい。[……]対立のお膳立てをするのが作家の仕事だ。対立があれば登場人物たちは驚くようなことをいったり、暴露したりして、読者に情報を与え、楽しませてくれる。そういうことができなかったり、やりたくなかったりするなら、この商売から足を洗ったほうがいい。

ヴォネガットの「文芸創作基本ルール」第六条にはこう書かれている。

サディストになること。きみの小説の主人公がいかにやさしくて罪のない人物でも、その人物に恐ろしいことが起こるようにするのだ――その状況に対して主人公がどう振る舞うのか、読者が見物できるように。

そして読者がページをめくるように。

「好奇心は九つの命をもつ猫も殺すというから、気をつけなさい」私の母はよくそういった。だが、すぐそのあとに、こう付け加えた。「まあ、好奇心を満足させた猫は死んでも生き返るらしいけど」

研究者によると、ギャンブルをする場合も、野球の試合をみる場合も、ミステリーを読む場合も、「人々は結果を知るために投資している[……]しかし、結果をあまり早くは知りたくないのだ) 。

(略)

シドニー・オフィットはこういっている。「[カートは]学生に教えられるのは展開だけだ、といっていた。物語は展開と変化がなければならない」

それこそプロットの線がジグザグになる理由だ。

この件に関して、もっともおもしろくてためになる解説をYouTubeでみることができる。ヴォネガットが物語の形をグラフで表している動画だ。

この動画がどうやって生まれたかは、それ自体ひとつの物語だ。それにはプロットがある。これからその物語を語りながら、同時にヴォネガットのプロットの作り方についてもう少し情報を提供したい。

その物語はこうして始まった。1947年、ヴォネガットはシカゴ大学で修士論文を書き(第三章参照)、「ある文化の神話は、人類学のほかの遺物と同じであり、人類学者はそのように考えるべきだ」という理論を打ち出した。そして、社会が急速に変化する時期に新しい神話が形成されることに注目し、とくに北アメリカインディアンの物語を取り上げた。

その修士論文は却下された。ヴォネガットは退学し、学位をもらえなかった。

それから20年近くのちの1965年、最初はアイオワ大学で、ヴォネガットは再び修士号の取得に挑戦する。この物語のためにあえてその動機を述べるとしたら、彼はかつて以上に学位を欲しがっていた。初めて大学で教えることになって、学者や学位を持った作家たちに囲まれて、自分に学位がないことを以前より痛切に感じていたからだ。

必要なのは論文だけだった。そこで彼はまた論文を書いた。タイトルは「単純な物語における幸と不幸の推移」。テーマは20年前と同じだが、今回はすべての物語の形は文化的遺物とみなすことができると論じた。その論文は次のような主張で始まっている。

人間が語る物語はあらゆる人工遺物の中で、もっとも複雑で、魅力的で、示唆に富んでいる。

それからヴォネガットはD・H・ロレンスの「乗車券を拝見します」という短編を分析して自分の主張を証明しようとする。そのために、その短編の全文を書き写している。それが分量にして論文全体の二分の一を占めていた。彼は「全文を書き出す必要があった」と説明している。なぜなら「断片的に引用すると」、割れた花瓶のかけらと同じで、「その形」を明らかにすることができないからだという。

それを文化的宝にしているのは、まさに人類学者たちによって無視されてきたもの、すなわち「物語がどのように語られているか」ということだ。

あたかも科学的手法を用いているといわんばかりに、ヴォネガットはこういっている。

どんな物語の形も[……]有益な分析を行なうことが[……]可能だ。ほかの研究者が同じ物語について独自に分析を行なった場合も、ほとんど同じような結論に到達するだろう。

そしてヴォネガットは二本の軸から成るグラフを提示している(グラフ1参照)。左側に垂直方向に延びる縦軸があって、その中間点から右へ向かって水平方向に横軸が延びている。

縦軸の目盛りは「幸運と不運の度合いを示し[……]横軸より上が幸運、下が不運、縦軸の中央の位置は目盛りがゼロの普通の状態、または休眠状態かもしれない」。つまり横軸は幸運でも不幸でもない通常の人生の位置を示している。そのグラフ上にヴォネガットは登場人物たちの運が上がったり下がったりする様子を線で描いていった。

幸運と不運のおおまかな変動が、物語の形の大枠を決定することが[……]わかる。
グラフ上では、物語は重要な登場人物が運の変動を経験するところから始まり、変動が収まるところで終わる。それ以外のすべては背景である。
[……]現代の短編小説の名手は、物語の形にひじょうに関心を払っている。なぜなら、作家は読者を楽しませなければならない、退屈させてはならない、満足させなければならないという考えに取り付かれているからだ。
読者から愛されたいと願う現代の作家の信条を表す有名な言葉がある。誰の言葉か私にはわからないが、おおよそこんなものだ。「作家は読者が時間を無駄にしたと思わないように物語を語らなければならない」

論文の中でヴォネガットは古典的作品のプロットと、現代の非凡な作品のプロットをいくつか図解している。「みにくいアヒルの子」は「あらゆる物語の中でももっとも単純な形」をしており、一続きの階段のように見える。カフカの『変身』は幸運・不運を表す縦軸の中間点から始まって、一気に落ちこみ、それ以後、横軸より上に浮上することはない(グラフ2参照)

聖書の創世記については、「見事な形を有する遺物」と呼んでいる。

創世記はほとんどの天地創造神話と同じように始まり[……]「みにくいアヒルの子」と似たグラフを描く。[……]しかし、その階段の最上段に達したとき、創世記をつくった天才作家がしたことに注目してほしい。[……]自分がたったいま読者のためにつくった理想的な世界から、アダムとイブを追放したのだ(グラフ3参照)

ヴォネガットはこの論文を次のような気取った所感で締めくくっている。

上記のようなグラフによる図解で、すべての物語の骨格が明らかになる。それによって物語は、骨格構造として、多少の客観性をもって検討され、考察され得るようになる。[……]願わくば、このような文学的遺骨が、人間の遺骨を研究してきた人類学者の関心の的にならんことを。

この論文には「きわめて多様な情報源から選択された17の物語の単純な骨格構造」というタイトルの補遺もついている。それは安っぽい薄緑のグラフ用紙に鉛筆で書かれた図表で、人をからかってはしゃいでいるような雰囲気がある。

こうして、いま一度、物語の形が他の文化的遺物と同じように魅力的で調査する価値のあるものだということを人類学者たちに説得しようと努力したものの、シカゴ大学の人類学部はヴォネガットの論文を却下した。またしても。

それは当然だった。その論文の半分は短編小説を書き写したものだし、使われている言葉もひじょうにくだけた非学術的な言葉だった。締めくくりの一文は、ヴォネガット独特の奇抜なユーモアに富んでいる。たしかに彼は、短編小説と文化との関わりについて、刺激的な疑問を呈している(たとえば1950年代の編集者たちが、「短編小説は、最初に〝心地よい状況にいる〞人々が、最後に〝さらに心地よい状況にいる〞ようにして終わらなければならない」と主張していたことに対して疑義を唱えている)。しかしこの論文は、プロットの形を強調しているだけで、それがどうして文化的遺物なのかが書かれていない。

二度目の却下を食らった当時のヴォネガットの反応は、「〔シカゴ大学の連中なんか〕くたばりやがれ!」だった) 。

いっぽう、アイオワ大学で、ヴォネガットはこの論文に書いたことの要点を教えていた。ロバート・ラーマンは、こう回想している。「学生の一部はカートがすべての小説をひとつのグラフに単純化してしまうことに困惑していた。『誰かをトラブルに巻きこんで、そこから救い出せ!』『穴に落ちた男にしろ!』と彼はいっていた)」

その後、ヴォネガット自身の運は急上昇する。賞賛されるようになる。シカゴ大学はヴォネガットの論文を却下してから6年後の1971年、『猫のゆりかご』が論文としての条件を満たしていると認め、彼に名誉学位を与えた。

それ以来、ヴォネガットは物語の形についての講義で、論文に書いたのと同じ図解を、その場で黒板に書くようになった。

このサクセスストーリーの最終章は、かつて却下された論文に基づく彼の講義が、現在、すばらしくおもしろくてためになる講義としてYouTubeで視聴できるようになったことだ。

ヴォネガットはもういない。しかし、彼の論文という遺骨は残った。

これで物語はおしまい。

まさに、欲望と、失望と、葛藤と、驚きと、勝利の物語だ!

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読者に憐れみを

ヴォネガットが教える「書くことについて」

カート・ヴォネガット/スザンヌ・マッコーネル=著
金原瑞人/石田文子=訳
発売日 : 2022年6月25日
3,200+税
四六判・上製 | 616頁 | 978-4-8459-2003-7
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