ためし読み

『動物学者が死ぬほど向き合った「死」の話 生き物たちの終末と進化の科学』

序文


首の靱帯、輪切りにされた気管、眼球……。わたしの目の前にある白い棚には、人体の大小さまざまな部位が、容器のなかで液体に浸かって、ところ狭しと並んでいる。水ぶくれした手、色の抜けた背骨や膝関節、切断された頭蓋骨の一部、瓶詰めの脳味噌。日ごろ、そうお目にかかれる光景ではない。シリンダーに入っているものもあれば、アクリル樹脂の透明な箱に収まっているものもある。いずれも何らかの液体に浸っているのは防腐処理のためだろう。と同時に、その液体の漂白作用のせいで、すべての標本が背筋の凍るような純白と化している。

わたしは隣の棚へ移動して、ふたたび足を止めた。コーヒーを軽く口に含んでから、カップを受け皿に戻す。とたんに、からだが震えているのがわかった。ささやかなアラーム時計よろしく、皿の上のスプーンがかたかたとカップを打ち鳴らしている。耳障りな音を立てているのは誰かと、周囲の視線が集まってくる。わたしは気持ちを落ち着けようとした。目の前の圧倒的な光景に、事実、わたしの頭のなかではアラーム音が鳴っている。部屋の広さはテニスコート二面くらい。中央にじゅうぶんな空間があり、ふと見上げると、二層の金属製バルコニーがこちらにのしかかるように張り出している。ガラス張りの天井から降りそそぐ光が、100人ほどのイベント参加者をセピア色に染め、醒めることのない奇妙な白昼夢であるかのような雰囲気を醸し出す。かつて1世紀あまりのあいだ、この広い室内は手術室だった。数えきれないほどの医学的治療や検死作業がここで行なわれたはずだ。いや、手術室というより、手術を題材にすえた〝劇場〞と呼ぶべきかもしれない。当時、2階や3階のバルコニーにはおおぜいの学生が陣どって、眼下の光景を見つめ、知識を磨いて将来の仕事に生かそうと目を輝かせていた。時代を超越して、奇々怪々な場所なのだ。

わたしがいま参加している催しは、〝デス・サロン〞と銘打たれている。アメリカで人気らしいが、ここイギリスでは初めて開かれた。会場はバーツ病理学博物館。金融街として知られるシティ・オブ・ロンドンとは目と鼻の先だ。わたしがもらった歓迎チラシの宣伝文句によれば、デス・サロンとは「知性あふれる人々や、探究心に満ちた個人が一堂に会し、おのおのの知識や技能を分かち合うことにより、われらが共有する〝死〞なるものを突き詰める」催しだという。ふむ、興味深い。わたしは前々から〝探究心に満ちた個人〞をこころざしてきた。実際、その目標をみごとに果たしたと、謹んでここに報告したい。なにしろこの場所で、気管や腸、小さな睾丸などが得体の知れない保存液のなかで浮き沈みするさまを眺めつつ、ひとり思索にふけって……かれこれ三日になる。丸々三日間、ここにいるのだ。

ほかの参加者を見渡すと、そうとう幅広い人々が集まっている。年齢もさまざまだが、こんなに女性の割合が多いイベントに参加したのは何十年ぶりだろうか。新鮮な気分だ。若年層が目立つのも意外な気がする。しかも、知識欲あふれる学生というわけではなさそうで、身なりからして大学進学をめざすタイプには見えない。じゃあどんな雰囲気の若者たちかといえば……いまだかつて出会った覚えのないような集団だ。なんというか、参加者の大半は葬儀屋のような落ち着きをまとっている。服装が妙におそろいで、おおかたは、黒縁めがねに、革の小型かばん、スキニージーンズ。ピンストライプのスーツやトレーナーなどを着た者も数人。なぜか、ボウリング靴を履いている男がひとりいて、脱ごうと懸命になっていた。さらにどういうわけか、その男の連れの女性たちも……。服装からして、茶番劇のような雰囲気を漂わせている参加者もいる。おおげさな巻き髪。ぴったりとした黒のロングドレス。黒いマニキュア。多くが房飾りを付けている。いずれにせよ、わたしは完全に周囲から浮いた存在だが、まあ、こんな場違いな感覚を味わうのは人生初というわけでもない。手元のコーヒーをもうひとくち飲んだものの、胸の鼓動を反映して、スプーンが小刻みに震えて音を立てている。

このデス・サロンの存在を教えてくれたひとりが、わたしの出版代理人であるジェーンだ。いま実際ここに参加し、集団の最前列でほかのクライアントと話し込んでいる。そのクライアントの優しげな女性は、母親に死なれたあとの悲しみについてプレゼンテーションするために今回招かれたゲストらしい。そのプレゼンが始まる寸前、わたしは並んだ椅子のあいだをよろよろと進み、はるか端っこのわずかな空席をめざす。部屋の奥にいるジェーンと目が合った。ジェーンは親指を立てて、満面の笑みを向けてくる。はるかに距離が離れてるのに、「どう、素敵じゃない?」と唇が動くのが見てとれる。こちらはさほど素敵な気分でないまま親指を立てて返す。空席が見つかって、ともあれ腰を落ち着ちつける。わたしは本の執筆のためにここへ来た。ああくそっ、これから長い旅が始まるのだ。

執筆依頼が来ないうちに原稿を書き始めるのはよしたほうがいい、と誰もが言う。いまようやく、わたしもその理由を身に染みて感じた。『不思議の国のアリス』さながら、わたしはウサギの穴に真っ逆さま。脱出しようと、もがいてもどうやら無駄だ。もしこの本の執筆依頼が来なかったら、金銭的な報いのない冒険をするはめになり、この先五年間は家族から冷ややかなまなざしを向けられるだろう。現状では、代理人のジェーンともども出版のゴーサインを待ちわびている段階だが、えいやとばかり、わたしは早くも序章を書き始めている。死と生と進化は、もはや目を背けるわけにいかない興味深いテーマに思える。願わくば、内容はご自由にとお許しが出て、万事支障なしとなるといいのだが……。ブルームズベリー社の担当編集者のジムからは、近ごろ、多少は期待の持てるメッセージが届いているものの、死を全面的に扱った書籍が好評に迎えられるかについてはおおいに危惧しているふうだ。ふだん愛想のいい男なのだが、このところ少しよそよそしい。出版社内の仲間が賛成してくれないのではと心配なのだろう。とりわけ、書名に「死」と入った本が売れるだろうかと不安で仕方ないらしい。もっとも、ジムの不安はほかにもある。書名どころか、ほとんどのページに「死」という単語が散らばった本が人気を得るだろうか。わたしをたしなめようと、「みんな、ふつう、死ぬことについては考えたくないんじゃないかな。とすると、死について考えさせようとする本なんて、わざわざ買うかなあ」と何度も言っている。立場上、本が売れないともちろん困る。だからこそ、「ゴーサインが出るまで、この本の執筆はどうしても待ってくれ」と再三、警告している。気が気でないのだ。「大丈夫だって」とわたしはこたえる。「異色の内容なんだから」。ありきたりな本を書くつもりはない。「死は定めなり。われらに避けるすべはなし」といったたぐいの書籍なら腐るほどあるし、だいいち、その種の本はお説教くさくていけない。

人間に課された運命とはいえ──まあ少なくともわたしは──死について考えたくない。嫌でたまらない。遺書なんて作成していないし、老後の計画も立てていない。健康保険にも入っていない。さらに、容器内でアルコール漬けになった人体の器官を目前にして、いま、胸奥から驚くほど嫌悪感が湧き上がってきている。しかし一方、わたしは自然界を愛している。進化の過程も、自然淘汰が無数の方法を駆使して人間の想像力を超越した生物を作りだした事実も、好きでたまらない。多様性が興味深い。多種多様。いや多種多種、多様多様。色も素晴らしい。それぞれの生態的な地位も、習性も、実際のエピソードも、魔法も、驚異も。自然界の驚くべき仕組みのなかで、当然、死というものが一つの要素をなしていると思わないか、とわたしはジムに言った。当然ながら、死は、生きとし生けるものを待ち受けている普遍的な存在だろう、と。数週間前、さらに詳しいアイデアをぶつけてみた。「ジム、じつは、死が進化に影響を与えているとの説があるんだ。21世紀に入って、われわれが住む地球にはじつに多様な生態的地位があふれていることがわかってきたけれど、そこにも死が影響しているらしい。何か信じがたいかたちで、死は自然界に溶け込んでいるんだと思う。自然界に力を与え、多様性に拍車をかけている。そこのところを明らかにしたいんだよ。死が自然や進化に与えている影響を明確にして、われわれの限りある命と照らし合わせて考えたい」。

なにしろわたしは、死に関して執筆しそこねている。前著『生きものたちの秘められた性生活』では、生き物王国における性行動をめぐって、さまざまな考察をまとめた。そのなかで、世間は(とりわけ、一部のメディアは)自然界の性行動をもっと広い視野でとらえるべきだと主張した。どの生き物のペニスがいちばん大きいとか、オーガズムがいちばん長い生き物はどれかとか、そういった好奇心から離れた視野が必要だ、と。パンダにしても、ほかのどんな生き物とも同じくらい、性を意識して進化してきたはず、と擁護した。ペニスの話題ばかり取り上げるニュース編集者に噛みつくと同時に、オスの性行為の研究ばかりでなく、メスの生殖器官の構造をくわしく解明することも重要だと、熱心に訴えた。ダニ、ナメクジ、クモなどを題材にしながら、行為について軽視されてきた生き物たちにもあらためて目を向けてもらおうとした。生物の多様性をたたえ、性行為をたたえた。しかし、どのエピソードの陰にも、わたしを悩ませ続ける問題があった。単純な話だ。生き物は、性行為のエキスパートになろうと進化する。だが……死を避けて長生きする方向へは、なぜ進化しないのか? この問題がいつも頭から離れなかった。 みなさんも、ちょっと考えてもらいたい。生き物はどうしてみんな死ぬのだろう? 多細胞生物は、細胞をもっと長いあいだ補充できるように進化すれば、生殖行為の機会を増やせて好都合ではないか? 遺伝子がそんなふうに変化すれば、生き物として繁栄するはずなのに、なぜそういう例をあまり見かけないのか? 自然界で死が普遍的なのはどうしてだろう? 不死の生き物が増えて、遺伝子プールに満ちあふれ、性的に生き残り続けるようにならないものか? 不思議、いやまったく不思議。われらが地球では、どの生命体も、ある大きな原動力に突き動かされている。自己を増殖しようとする願望だ。30億年にわたる進化のすえ、地上には、生き残る術と再生能力にたけた生き物であふれている。けれども、死は? なぜいっこうになくならないのか? 自然淘汰が死をターゲットにして、この世が不死の生き物だらけになることはないのか? ほんの1つ、2つの属や科が死んでいくわけではない。あらゆる生き物が死ぬ(と、当初わたしには思えた)。どういうわけか、死は生き物に、われわれの身の回りのあらゆるものに付いてまわる。なぜか? なぜ世界はそんな仕組みなのか? 不思議、いやまったく不思議。

わたしが死の科学に無知かといえば、そんなことはない。前述のとおり、生き物の性行為に長年深い興味を抱いてきた。その種のエピソードのなかでは、性と死の摂理がほんの隣り合わせという例も数多い。有名なものとして、たとえば、サケは、幼魚のころに川から海へ移動し、やがてまた川に戻って産卵し、死ぬ。クモのメスは(おそらく、カマキリの一部も)性行為のさなかにパートナーのオスを共食いしてしまう。ダニのメスは、進化のすえ、卵を産み落とさないようになり、体内で孵化させ、みずからの身を内側から子供たちに食べさせる。ヒキガエルのメスは、性行為を争う7、8匹のオスに掴まれ、組み伏せられたあげく、溺死する場合も珍しくない。カゲロウは、幼生のあいだ1、2年間、淡水のなかで暮らし、じゅうぶん成熟後に宙を舞って生殖行為ができるのは、わずか数日しかない。こうした物語は、読者のみなさんも、何かのきっかけで知ることになるにちがいない。しかし、これはまだほんの手始めにすぎない。われわれはみな、性と死を持つオスメスの関係から生じた産物だ。しかし、無数の知られざる生き物は、そうではなかった。

だが、死に関する現象はほかにもあって、生き物関連の文献をみると、まったく奇妙で、簡単には意味が理解できない事柄もある。たとえばカメは何百年も生きる。イモムシは、生死をめぐるある種の定義では、いったん死ぬ。が、サナギの内部でべとべとしたものに変化し、なぜか不可解にも、チョウに変身する。一方、大きな目で見ると、なぜ99パーセントもの種がすでに絶滅したのか? 死は生にどんな貢献をしているのか? 死がわれわれにもたらしてくれているものは何だろう? 細胞に老いを与えているものは? はたして老化は止められるのか? 永遠に生きることは可能なのか? いやしかし、われわれは本当に永遠の生を望んでいるだろうか? このあたり、科学と感情がうまく一致しないところだ。現代の人間社会を生きながらもあくまで動物であり、現代的な経験をしつつも意識にはやがて終わりが来る。科学と感情の溝を越えて、わたしは、ある問いを解き明かしたい。つまり……死に関して、ヒトはなぜ全般に少し奇妙なのか?

前著で生き物たちの性生活を調査した際、インタビューに応じてくださった専門家の方々にはたいへん感謝している。どの学者も、性の進化について世間の理解が進むように骨を折っていた。どうして生き物の世界全体に大きな影響をもたらすのかを説明しようと、話したがっていた。性の進化を愛していた。しかし死も、自然界すべてに同じくらい重大だ。なのに誰も、本気でオープンにはっきりと、生物学的な用語を使って、死を語ろうとしない。生物学のその部分だけ、闇に葬られている気がする。おそらく敬遠されているのだろう。無視されている。おぞましいのかもしれない。わたしはそういった話題に惹かれる。どうも……生物学のライターが追究するのにあつらえむきのトピックに思える。

誰もが死を知っているが、死をめぐる科学についてはほとんど知らない。死がショックにつながることも、ほとんどの人が知っているだろう。つまり、近親者や親友(さらにはペット)の死に接すると、つらく深く長い悲しみ、人生が変わるような衝撃を受ける。しかしふだん、生物学的な観点から死を話題にするだろうか? いや、しない。だからやってみたいんだ、とわたしはジムに頼んだ。やろう。そんなわけで、わたしの旅が始まった。始めていた。正式な依頼はまだなかったが……。

〝デス・サロン〞は、最初こそ薄気味悪く、おそるおそる参加しているという感じだったが、三日間すごすうちに、まったく違う経験に変化した。むしろ、〝生命の場〞と感じられてきた。あるときは、親族の遺体の扱いについて法的にどんなことが許されているのか、講義を受けた。またあるときは、CPR (心肺蘇生法)の歴史を聞いた。臓器提供の詳しい仕組みや、人体が科学にどう貢献できるかといった話にも耳を傾けた。落書きのようなものに覆われた棺も見た。自分のCTスキャン画像も生まれて初めて見た。わたしが目を円くしてすわっている前で、女性モデルが衣服をすべて脱ぎ、さあ、この女性が黄金の骸骨(すなわち、死の象徴)を抱えている絵を描いてみてください、と指示されたときもあった。検死のようすをリアルに感じられる仮想映像も見た。ある時点では、ひとりの男が立ち上がり、自分がつくったミニチュアの鉄道模型を見せ、そのなかにコミカルな墓地をつくったこと、小さなプラスチック製の幽霊たちには、アクセサリーショップ「クレアーズ」で買ったハロウィーン用イヤリングを苦労して慎重に飾り付けたこと、などを話し始めた。参加者は微笑んだり、声を出して笑ったりしていた。そう、笑って、楽しんでいた̶死を目の前にして。もっとも、〝デス・サロン〞の三日間を通じて、わたしはつねに傍観者だった。

ひとり、押し黙って部屋の隅にすわっていた。〝デス・サロン〞は、ヒトの死に対してわたしの目を開かせてくれたが、三日間、誰ひとり、ただのいちども生物学に触れなかった。わたしの専門分野──科学、生命、進化──はほとんど言及されなかった。いささか奇妙に感じた。死は、ご存じのとおり、生物の状態をさす。自然淘汰という時計の歯車だ。

本書でこのあとお読みいただくのは、生物学的な死をめぐるさまざまな複雑な糸を解きほぐそうという、わたしなりの試みだ。ポピュラーサイエンスの書籍で〝長旅〞などという表現は陳腐きわまりないものの、申し訳ないが使わせていただきたい。本書は本当に〝長い旅〞になる。タブーなし、(望むらくは)陳腐な表現なし。ほとんどの場面で科学のみに導かれた旅。専門の研究者たちの思考をたどる旅。そして、あらゆる生き物がたどらなければいけない、壮大かつ楽しげな旅。生から性、死にいたり、地球上のなんらかのかたちに戻って、ある時点でおそらく、ウジムシのような何かに姿を変える。予想していたとはいえ、本書の執筆には苦心惨憺した。無事に出版のめどが立ったのは神様(とジム)のおかげだ。ありがとう、神様(とジム)。わたしはどうにか長旅から帰還した。もっとも、この世の誰かが本書を読みたがるかは、また別の話だ。しかしともかく、完成にこぎ着けられた。関係者のみなさんには感謝の念に堪えない。


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動物学者が死ぬほど向き合った「死」の話

生き物たちの終末と進化の科学

ジュールズ・ハワード=著
中山宥=訳
発売日 : 2018年4月26日
2,100円+税
四六判・並製 | 356頁 | 978-4-8459-1638-2
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