はじめに――障害と映画をつなぐ
「障害」というテーマを含む映画作品は数多く存在しますが、そのなかでも『コーダ あいのうた』(2021、シアン・ヘダー)は、近年もっとも注目を集めた作品の1つといえるでしょう。『コーダ あいのうた』というタイトルが示すとおり、当作品はろう者*1の家族と聴者の子ども(コーダ*2)を描いた映画です。
主人公は聴者の少女ルビーですが、ルビー以外の家族は全員がろう者であり、物語にはろう者と聴者(社会)の隔たりや、そのあいだを取りもつルビーの葛藤が示されています。ルビーは高校に通いながら家業の漁を手伝い、家族の支えとなっていますが、高校で入部した合唱クラブで歌う楽しみを見い出し、音楽大学を受験するのか家業を手伝うのか、将来の進路に悩みます。はじめは進学に反対する両親ですが、ルビーの才能に気づき、進学を応援することをやがて決意します*3 。『コーダ あいのうた』にはルビーの成長物語や家族愛といった複数のテーマを読みとれますが、ろう者の家族をもつコーダとしてのアイデンティティが中核に据えられていることは間違いありませんし、さらにその背後には、「障害と社会」というテーマが明確に意識されています。
当作品は2022年の第94回アカデミー賞で3部門(作品賞、助演男優賞、脚色賞)を受賞したことで脚光を浴び、それをきっかけに「ろう」や「コーダ」をテーマとした映画として、あるいはより広くみれば「障害」をテーマとした映画としても、評価されることになりました。
しかし、当作品への世界的な賞賛をもってして、「障害というテーマへの注目度の高まり」とか、ひいては「障害に対する社会的理解の促進」といった結論に結びつけることは、あまりに短絡的です。なぜ『コーダ あいのうた』が世界的注目を集めるに至ったのか、そこにはおそらく複数の要因が見い出されるはずです。あるいは『コーダ あいのうた』は観客にいかなるメッセージを与えうるのか、そこにもまた複数の要素が関与しているはずです。そうした視座を丁寧に洗い出してみることが「スクリーンのなかの障害」を考えていくためには必要となるでしょう。
障害者への視線とリアリティの変化
当作品をはじめ、「障害」をテーマとした近年の映画には、それをポジティヴに捉えることで、「多様性」を称揚するような方向性がしばしば認められます。しかし、かつて映画のなかで描かれてきた障害は、かならずしもそうした傾向をもつとはかぎりませんでした。現在の社会状況からみれば考えにくいことですが、障害(者)が「差別」や「恐れ」の対象として描かれたり、「同情」や「哀れみ」の対象として描かれたりすることも頻繁にあったのです。そうした状況からみれば、昨今の映画が目指す「親和的」で「共生的」な障害観は、一見すると、障害をとりまく社会態度の進歩と受けとることもできます。
しかし、「親和的」で「共生的」な障害観はいつでも手放しで賞賛されるべきものなのでしょうか。障害者を観客にとって「理解可能な存在」として描くことは、もしかすると、他者と向き合う際に当たり前に生じうる「わからないこと」や「理解できないこと」を覆い隠し、障害をとりまく(本当の意味での)多様な側面をみえなくさせる可能性をもつかもしれません。そこで注意したいのが、「スクリーンのなかの障害」がいかなる構図をともなって描かれるのか、という点です。
映画のなかで「障害」というテーマを扱うことは、単に「障害」を描写することにとどまりません。それは「障害」をめぐる「人々のコミュニケーション」を描くことにほかならないのです。この「人々」とは、障害者と健常者の関係を指す場合もあれば、障害者同士の関係を指す場合もあります。同時にそれは、個人間の関係を指す場合もあれば、個人と社会の関係を指す場合もあります。またそうした関係性は、「友情」や「恋愛」や「家族愛」といった枠組みで捉えられることもあれば、ときには既存の枠組みに回収できない場合もあるでしょう。いずれにしても、映画において「障害」ということだけを抽出して提示することなどできず、そこにはかならず「人と人との関係性」を描くということが不随しているはずです。私たち人間の生活自体がつねにコミュニケーションと切り離せないことを考えれば、それはごく当然のことにも思えます。
『コーダ あいのうた』の場合にも、強調されるのはろう者と聴者の関係をはじめとするコミュニケーションだといえます。そこでは「わかりあえなかった人々がわかりあえるようになる」とか、「うまくいかなかった物事がうまくいくようになる」とか、いわば「不全」から「達成」へのコミュニケーションが示されるわけですが、そのコミュニケーションの架け橋を担うのが主人公ルビーの存在です。それはルビーがろう者の家族と聴者の社会をつなぐ手話通訳としての役割を帯びていることからも明らかですが、ルビーが取りもつコミュニケーションは物語内の人間関係だけにとどまりません。というのも、当作品を聴者の立場から観る多くの観客にとって、ルビーは感情移入の対象となることを請け負いながら、「ろう」や「手話」というテーマを観客にわかりやすく伝達する架け橋にもなっているからです。
当作品では物語内部においても、物語外部の鑑賞行為においても、「わかりあい」を目指すような共感的コミュニケーションが引き起こされるわけですが、そうした指向性は他の作品にも認められます。このように、「コミュニケーション」という視座を導入してみると、「スクリーンのなかの障害」が観客に提示しようとする構図やメッセージの意味が、より鮮明にみえてくるように思います。
ところで、「スクリーンのなかの障害」をとりまく共感的コミュニケーションは、しばしば映像や音響の仕掛けによって下支えされています。たとえば『コーダ あいのうた』では、ろう者と聴者の関係をめぐる「聞こえないこと/聞こえること」が重要な要素をなしていますが、それが観客にとって認知可能なものとなるのは、視覚的な映像と聴覚的な音響によって表象されているからです。その象徴的なシーンの一つが、ろう者の両親が置かれた「音のない世界」を無音のサウンドによって再現した場面です。詳しくは本論で扱いますが、観客はろう者の両親が聞くのと同じように物語世界の音を聞くことによって、いわば彼らとの同一化を疑似体験するというわけです。一見すれば、これは聴覚を用いた「障害の再現」とも受けとれますが、じつのところ、観客が「音のない世界」をそれとして認知できるのは、その前後に置かれているサウンドに彩られた物語世界との対照性を承知しているからだともいえます。
こうした点を考慮すると、映像や音響による感情移入や同一化の仕掛けは、当然のことながら障害の忠実な再現などではありませんし、またその背後には、登場人物と観客の不均衡な関係が前提とされているともいえるでしょう。観客の鑑賞行為という観点から「スクリーンのなかの障害」を考えるには、視覚的・聴覚的な表象のなされかたにも注目することが重要です。
以上に示されるように、『コーダ あいのうた』には様々な分析視点を見い出すことができますが、当作品に対する世界的な評価は、じつは作品のストーリーや構成だけに向けられたものではありませんでした。それが「ろう者の役にろう者の俳優を起用する」というキャスティングのあり方への賞賛です。主人公ルビーの父親役を演じたトロイ・コッツァーもろう者の1人ですが、彼がアカデミー賞の助演男優賞を受賞したことも相まって、映画における当事者キャスティングのあり方に高い関心が寄せられています。これは裏を返せば、これまで多くの製作現場において、障害当事者の俳優が排除されてきたことを意味してもいます。その結果として、映画に描かれる手話やろう文化が実態とかけ離れたものになってきたという批判の声があげられてきたのも事実です*4 。
そのような経緯から、「障害を演じること」はしばしば権利の問題として論じられてきましたが、他方でそれは、「演じること」をめぐる「リアリティ」の問題として考えてみることも可能ではないでしょうか。「健常者/障害者が障害者を演じること」に対して「リアリティがある/リアリティがない」といった評価がもたらされるとき、そこには演技性やフィクション性を維持するフレームの成立(あるいは破綻)が認められるはずです。「スクリーンのなかの障害」をめぐる議論は作品の内容分析に向けられがちですが、「障害を演じる行為」や「観客がそれを観る行為」にも目を向けてみると、映画と障害を論じる可能性が広がるように思います。
*1 聴覚障害は、聞こえの程度や失聴時期の違いによって「ろう」「難聴」「中途失聴」といったいくつかの区分に分けられます。ただしそれらの違いは、単なる医学的区分としてのみ捉えられる問題ではなく、当事者のアイデンティティにかかわる問題でもあります。ろう者の場合には、手話を母語とすることが重要な意味をもちます。
*2 ろう者の親のもとで育つ子どもをCODA(Children of Deaf Adults)と呼びます。
*3 当作品は2015年にフランス映画祭で観客賞を受賞した『エール!』(2014、エリック・ラルティゴ)のリメイク版として知られますが、人物像や細部のストーリーには差異もみられます。
*4 『コーダ あいのうた』はろう者の描写において多くの賞賛を集めましたが、他方で、家族以外のろうコミュニティが描かれない点や、家族の対外的なコミュニケーションがルビーに依存したものとして描かれている点に疑義が呈されることもあります。
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