日本語版への著者の序文
この本が初めて刊行された2022年は、どう見ても「アクティビズムのアート」と「アートのアクティビズム」にとって重大な分岐点だった。環境アクティビストたちが、フェルメール、ゴッホ、モネなどの名画にケーキやスープ、マッシュポテトを投げつけたり、自らの身体を接着剤で作品に貼りつけたりする一方で、美術館スタッフがストライキを起こして労働組合を組織し、著名な写真家ナン・ゴールディンのグループ〈P.A.I.N.〉が、大規模な薬物依存問題を引き起こしたサックラー家の文化支援を攻撃目標にした。さらには、ウクライナとの戦争を支援するロシアのオリガルヒたちが美術品を収集していることをデモ隊が非難するなど、まるで空気そのものが、「1960・70年代以来、見たことがない」ほどに抗議美学で満ちあふれていた。それから約3年が経ち、再びなにかが変わりつつある。確かに、こうした変化をはっきりと把握する試みは時期尚早だが、この新たな序文で問うべきは、これからの章で描かれるエネルギッシュなアクティビスト文化を振り返ったとき、それが2022年頃に頂点を迎えていたのではないか、という疑問だ。そして、2025年現在、世界の多くの地域が保守的なナショナリズムの価値観を受け入れているなかで、なにか別のことが起きているのではないか? 本書で紹介される創造的な抗議実践の豊かさは、再び後退しつつあるのか? そして、こうした変化が、アートワールドを自己検閲へと導き、より穏やかな美的形式への回帰をもたらすのだろうか? それはすべて過去に起こっていることなのだ。
私は本書のイントロダクションで、アクティビスト・アートは「一見するよりもはるかに奇妙な現象」であると主張し、それはアーティストが今世紀に入って生み出してきた、最も際立ったタイプの仕事であると、自信を持ってつけ加えた。こうした観察に基づいて、本論ではさらに大胆な主張を提示し、「アクティビズムのアート」と「アートのアクティビズム」はもはや単純に交差するのではなく、むしろますます互いに折り重なっていると断言する。この同調は、単に外見上の類似性や境界の曖昧さではなく、根本的に新しく、別のものだ。私はそれを「まるで鏡のなかのように、反転して逆さまに映ったベン図」に例えている。言い換えれば、抗議をアートとして遂行するアーティストと、抗議として美的手法を採用するアクティビストは、どちらも同じ歴史的転換点の構成要素である。この転換点には明確な系譜があり、その起源は1960年代にギー・ドゥボールと〈シチュアシオニスト・インターナショナル〉(SI)が理論化した資本主義による社会のスペクタクル化にまで遡ることができる。この点については、第2章「シチュアシオニストによる完全な批判と完全な治療」で論じる。しかし同時に、この影響力ある仮説は根本的に変容している。それを以下で考察しよう。
この歴史的状況は、資本主義の社会経済的最高傑作と特徴づけることができる。それは、歪められた社会彫刻に似て、まるでデジタルネットワーク化された資本がヨーゼフ・ボイスの影響力ある概念を再利用し、私たちの注意、不安、そしてときには敬虔な心を、美徳を示すことを通じて結集するかのようである(というのも、地獄への道は善意の介入によって舗装されているのだから)。しかし同時に、この錯乱した状況は、芸術が歴史的に主張してきた自律性や自由を剝ぎ取ってしまった。現代のハイカルチャーの領域は、私が「剝き出しのアートワールド」と呼ぶものになっている。これは、以降の章で私が提示するいくつかの用語のひとつで、ほかにも「ダークマター」(38頁参照)、「モックスティテューション」(135頁参照)、「記念碑破壊」(160頁参照)、「幽霊アーカイブ」(86頁参照)がある。そして本書の終盤に「非現在」(206頁参照)という概念で完結する。この「非現在」とは、かつてなじみ深かった日常の現実を解釈する方法が、近年になって奇妙で異世界的なものへと変質したという不気味な感覚を私なりに命名したものだ。それも、この変化に対してほとんど誰も驚かず、「新しい異常」として受け入れるほか選択肢がないかのようだ。さらに、「非現在」は、絶え間なく繰り返される危機的状態を予告しており、それはもはや通常の状態に回帰する約束を(噓でも)することはない。その最も顕著な特徴のひとつが、台頭するオルタナ右翼運動が、左派の社会運動で生まれたアクティビスト文化の形式を露骨に流用している点にある。いずれにせよ、本書で提示する数多くの概念は、以前にも増して現代的な意義を持つようになっていると同時に、現状に即したスペックの追加が求められている。
当然ながら、この本は出版以来、一部の書評で異議を唱えられてきた。たとえば、ある批評家は、本書の描く歴史的な軌跡が、65年ほど前に〈SI〉によって展開された資本主義スペクタクルの理論[1]を大幅に更新したり修正したりするものではないと指摘している。読み返してみると、この指摘には一理あると認めざるをえなかった[2]。しかし、それでもなお、〈SI〉のスペクタクル論と、私が「非現在」における美学化された資本主義と呼ぶものとの間には決定的な違いがある。1988年、ドゥボールは自身の初期の理論を更新し、新たな状況を「統合されたスペクタクル」と表現した[3]。そこでは、それまで拡散していたスペクタクルのすべての諸要素が、単なる大量消費の誘惑にとどまらず、広範な国家監視を伴って、単一の、より強大な現象へと融合している。さらに、この統合された資本主義スペクタクルは、過去も未来もない永遠の現在に自らを位置づける。にもかかわらず、ドゥボールの改訂後の記述の多くは、国家がいかにして密かに、この大衆欺瞞を生み出す陰謀を企てているかに焦点を当てている。彼は「秘密」(SECRECY)と大文字で強調しながら、「秘密がこの世界を支配しており、その最たるものが支配の秘密である」と述べる[4]。さらに、支配層のエリートたちは自らがこの秘密を握っていると思い込んでいるが、実際にはその思い込み自体、欺瞞の上に欺瞞が重なる背後に隠れた、壮大な陰謀の別のレベルに過ぎないと主張する。「無知は、利用されるためにのみ生み出される」[5]。
対照的に、不気味な「非現在」についての私の仮説は、陰謀論に駆られた虚偽意識に関する左派と右派両方の信念に異議を唱えることを目的としている。資本主義の全体的なデザイン美学を国家や企業の隠された陰謀によって生み出されたものと見なすのではなく、現在の政治的、社会的不気味さは、私たちが積極的に参加しているあからさまな現実を表していると、私は主張する。21世紀初頭の私たちの集団的経験は、映画『マトリックス』のようにトップダウンの策略によって決定されるのではなく、インタラクティブでネットワーク化された経済のなかでつくり出されており、そのスペクタクルの構造自体を私たちが再生産しているのだ。この構造は、資本の価値の否定できない源である人間労働の、テンポ、リズム、感覚的な鼓動に呼応して絶えず変化する。 この点に関して、ここ数年の間に有力になり、支配力を持つ可能性のあるブレークスルー・テクノロジーとして登場した人工知能は、この考え方を明確にするのに役立つ。LLM(大規模言語モデル)と生成AIはどちらも、真にランダムなアウトプットや、根本的に新しい認知構造を生成することはできない。代わりに、スペクタクル化された資本主義のように、AIは洗練されたパターン認識と再結合システムとして機能し、繰り返しを通じて現在のシステムを継続的に再生産しながら、時間自体の商品化をもたらす。まるで歴史が絶えず回転するコンベアベルトで繰り返し製造されているかのように。
注目すべきことに、これらの観察のいくつかは、私が第1章で論じた、ブロックチェーン・テクノロジーによって可能になった非代替トークン、略称NFTに対するアート界の一時的な熱狂にも当てはまるかもしれない。NFTとAIはほとんどの点で異なるテクノロジーで成り立っているが、どちらのタイプのソフトウェア・アプリも、資本主義市場を導く利益拡大への、同じタイプの投機的関心によって制約を受けている。それでも、AIは明らかに、NFTを含むこれまでのデジタル技術の発展とはまったく異なるレベルの挑戦を人間の芸術活動に突きつける。そしてそれは、間違いなくこれまでよりもはるかに複雑な文化的影響を予兆している。とはいえ、AIをめぐっては、芸術における真正性、所有権、シミュレーションに関する懸念が生じる一方で、芸術そのものにも関わる民主的なアクセスや集団的で公平な成果をはじめ、政治的に逆行する勢力や金融・商品市場による極端な収益化からこのようなテクノロジーを切り離すことなど、より深い問題が残る。しかし、非常に問題なのは、もし「非現在」が実際に私たちの共通の現実になっているとしたら、人間社会はすでに、極度に個別化されたデータポイント、ジル・ドゥルーズの言葉を借りれば、今日の私たちの断片化された主観性を表す「分人」(dividuals)の塊で構成された、AIのような時代精神で成り立っていると推論できてしまうことだ。もしそうだとしたら、人間の創造性は、大規模に集約されたAIのように、パターン生成機能以外の何物でもないのだろうか? そしてAIは、理論家の故マーク・フィッシャーが2017年に亡くなる前に示唆しようとしていた資本主義リアリズムの新しい表現形態なのだろうか?(後略)
註
1 Guy Debord, The Society of the Spectacle, Black & Red Press, 1977.〔ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』木下誠訳、ちくま学芸文庫、2003年〕
2 Matthew Rana, “Notes on the War Studio: Gregory Sholette’s The Art of Activism and the Activism of Art,” PALETTEN, no. 330, February, 2023 , Göteborg, Sweden; https://paletten.net/artiklar/notes-on-the-war-studio-gregory-sholette-s-the-art-ofactivism-and-the-activism-of-art
3 Guy Debord, Comments on the Society of the Spectacle, translated by Malcolm Imrie, Versoedition, 1990.〔ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』(エートル叢書9)木下誠訳、現代思潮新社、2000年〕
4 ibid., p. 60.〔前掲書、89頁〕
5 ibid., p. 50.〔前掲書、75–76頁〕