『アーティストが服を着る理由 表現と反抗のファッション』(チャーリー・ポーター=著、清水玲奈=訳)より冒頭部分を公開いたします。
5月のある水曜日の夕方、ヴェネチアでテート主催のカクテルパーティーが開かれた。隔年で開催される国際芸術祭、ヴェネチア・ビエンナーレが開幕する週だった。会場は、16世紀の画家ティントレットによる無数のフレスコ画で壁と天井が覆われたスクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ。招待状には「ドレスコード:ラウンジスーツ」とある。
イギリスでエチケットの権威として知られるデブレッツによれば、ラウンジスーツとは、男性の場合は「シャツとネクタイを着用したスーツ」。女性の場合は「スマートなドレスまたはカクテルドレス(袖のあるデザイン、またはジャケット付き)」である。
会場の前方では、テートの会長とディレクターが正式なスピーチをした。後方では、白い長袖のTシャツを着たシャーロット・プロジャーが姿を見せていた。5ヶ月前に、テートが主催するターナー賞〔その年のもっとも優れたイギリスのアーティストに与えられる賞〕を受賞したアーティストだ。
そのそばには、やはりターナー賞受賞歴のあるアーティスト、ヘレン・マーテンがいた。黒いトレンチコートに白いシャツ、青いユーティリティ・パンツというスタイルだった。マーテンが同伴していたパートナーのマガリ・レウス(ヘップワース彫刻賞候補歴のあるアーティスト)は、シルクのシャツにジーンズ、スニーカーという装いだった。
元ターナー賞候補のアーティスト、アンシア・ハミルトンは、「スマートなドレスまたはカクテルドレス」とは程遠いティアードとスパンコールのドレスで登場した。本人はのちに「エドワード朝スタイル」のドレスと説明している。ハミルトンはこのドレスにスニーカーを合わせ、大雨だったので、オーバーコートを羽織っていた。数メートル先には、この年のターナー賞にノミネートされたヘレン・カモックが立っていた。カモックはグレーのTシャツにトラックパンツ、足元はやはりスニーカーだった。
ここで紹介した5人は、いずれも今日とりわけ重要性の高いアーティストであり、クィアを含む女性たちである。そして、家父長制的な社会とアート界に生き、活動している。体制に反抗する作品を制作していても、実際にはそれに従わないわけにはいかない。彼女たちの着る服は、この張り詰めた関係性をくっきりと示している。
過去数十年にわたり、アーティストたちがどんな服を着てきたのかを振り返ることで、アーティストが作品を制作する環境について、何が見えてくるだろうか? アーティストのワードローブは、その勇気や反抗心、あるいは社会の文化やイデオロギーへの従属について、何を語ってくれるだろう? さらに一歩進んで、私たちも自らのワードローブを見直し、「それでは私たち自身はどのように体制に反抗し、あるいは順応しているのだろう?」と問うこともできるかもしれない。
衣服は、自分を物語る暗黙の言語である。あなたがいま着ているものは、あなたが誰で、何を考え、どう感じているかについて、なんらかのメッセージを発信しているのだ。その内容はファッションの枠にとどまらず、自分の信念、感情、意思を、日々、さらには刻々と発信している。多くの場合、服選びは直感に基づいている。仕事ができる人に見えるように装う。気分が落ち込んでいるときには着心地の良い服にくるまりたくなる。デートには勝負服で臨む。しかし、私たちは自分が着る服に込められた意味を完全に認識しているわけではない。ただ、服を着るだけなのだ。
仕事に行く服を選ぶとき、ほとんどの人は妥協している。つまり、私たちの服装は、権力や野心、あるいは譲歩、謙虚さ、傲慢さ、抑圧、搾取など、社会的な意味も含んでいるのだ。女性にとって、仕事のための服装選びは、男性よりもさらに厄介なチャレンジとなる。
ところが、アーティストは、生き方からして違っている。アーティストはオフィスに出勤しない。9時5時とか、平日と週末というリズムとも無縁だ。つねに、自己表現を追求しつづけている。自分の状況を更新しつづけ、スタジオで自己完結した世界を築く。アーティストの作品は、一般的に受け入れられている生き方に疑問を投げかけることもあれば、それを補強することもある。アーティストが着る服は、その活動のツールになりうる。服が、別の生き方への願望を表し、あるいは現状への意識的な支持を表明するのだ。
アーティストが着る服のスタイルが、一般人の憧れの的になることもある。私の友人には、ジョージア・オキーフやバーバラ・ヘップワースのスナップショットなど、アーティストの写真を鏡の周りにピンで留めてインスピレーションにしている人がいる。ブランドは繰り返しこれらのイメージから借用を行い、つねに回りつづけるファッションのサイクルのなかで、アーティストたちの服装をコピーしつづけている。アーティストが、アートの視覚的な創造性に衣服を結びつけてそこに注目するのは、論理的な帰結に思われる。でも、さまざまなアーティストの写真を見ると、それ以上に奥深いことに気づかされる。アーティストの着る服には、ただの着こなしを超えた何かが秘められているのだ。
たんなるスタイル・アイコンとしてアーティストを見るとすれば、その人生と作品の現実をすっかり見落とすことになりかねない。アートは楽な営みではない。孤独な探求である。多くのアーティストは注目を集めることなく、人生の後半まで、あるいは死後まで評価されない。しかし、評価よりも制作そのもののほうがずっと重要だとアーティストは考える。こうした目的意識のひとつの証拠となるのが、やはり、アーティストの装いである。アーティストの装いは、フォーカスを絞って大胆不敵に突き進む生き方の証なのだ。
(続きは本書にてお楽しみ下さい)