はじめに
本書は「芸術制作とは何か?」という根本的な問いからはじまります。アーティストは制作において何をしているのか、どのように創造性は生まれるのか、という謎についての率直な問いです。これは歴史的にアーティスト自身によってしばしば秘匿され、膨大な作品つまり優美な謎だけが残されてきました。これを解き明かすために、アーティストでありかつ研究者である筆者が、芸術制作の基本原理のようなものに説明を加えようという、畏れ多い企てです。
本書の元となっているのは、筆者が客員准教授として2024年度に東京大学で開講した「芸術制作論」(総合文化研究科超域文化科学特別講義Ⅰ)という通年授業で、制作理論のレクチャーとドローイングのワークショップを隔週交互に行うよう設定されました。芸術制作の謎を解くためには、理論だけを先行させるのではなく、手を動かすことによって生じる制作知を体験する必要があると考えたからです。本書の考える芸術制作論は、天才と呼ばれる一部の芸術家や、芸術に専門的に関わる研究者・批評家・学芸員などだけでなく、あらゆる〈つくる〉に関わる人々に通じる制作理念の骨格を提案することを目指しています。それは、現代における芸術実践が、意味や表象あるいはアイデンティテイを偏重している現状に対する、筆者なりの抵抗でもあります。そのためにも、芸術制作の経験的理解――何らかの制作経験に基づく理解が、芸術作品の読み解きに絶大な効果をもたらすように――これを今あらためてつかむ必要性があると考えているのです。AI時代に突入した現代において、創造性とは何か? という問いもまた、具体的輪郭を帯びたものとして再考しなければなりません。これから人間は何をつくることができるのか、こうした問題意識をもとに組まれた制作論が、読者の皆さんの〈つくる〉に活性をもたらすことを願っています。
制作のさい「手を動かして考える」と言うことがあります。頭のなかだけで考えていてはダメだ、実際に行為をとおして世界の変化を感じ取ることが大事だ、と。ではいったいその内実とはどのようなものでしょうか? 手を動かして考える人とは、いったい何をやっているのか? これが〈制作知=ポイエーシス〉の第一の問いになります。
ポイエーシスとは、アリストテレスに倣って言えば、詩作や作曲のような韻律すなわち時間の生成に関わっています。時間の生成といっても、歴史的記述(ヒストリアー)のように確定した因果系列を外側から記述するのとは異なっており、時間の只中にあって自らの時間を生成するような制作のモードです。先の要素に応じて次の要素を産出する自己組織的プロセスによって、総体としての制作物を出現させる働きとも言えます。例えば詩作において、日常的な用法から離れた語と語の組み合わせから言葉を紡ぐ場面を考えてみます。試しに「親しい」という形容詞と、「石」という名詞を組み合わせてみます。すると〈親しい石〉という語が生まれる。これは現実に存在する石の記述(重い石、硬い石、平たい石などなど)とは異なっています。ひとたび〈親しい石〉と言ってみたならば、何かこの語から別様なイメージが出現しているのに気づくでしょう。子供の頃から肌身離さず持っている石だったり、親しい人から譲り受けた大切な石だったり、あるいは石自体が生きて人に語りかけてくる情景を想起するかもしれません。このように制作を構成する基本的な要素と要素の組み合わせによって新たな様相が出現することを「小さい創発(micro emergence) 」と私は呼んでいます。詩作は、こうした新しいイメージを契機にして次の一文へと展開してゆくでしょう。制作において手を動かし、状況を変えることで、文面や画面に起きている小さい創発に気づくこと、これが制作における感性、いわゆるセンスと呼ばれるものだと考えています。
画家が画面に次なる線を描き入れるときも、二次元空間のなかで絶えずこのような小さい創発が起きています。小さい創発は、手を動かした事後的に、具体的現実として現前します。また、これを積み重ねて熟練してゆくと、要素と要素を組み合わせることへの予期が働いて、事前にイメージをもつことができるようにもなるでしょう。この創発と予期の働きが、本書の制作論にとって二本柱の概念になります。小さい創発(micro emergence)は、手を動かすことによって生じた新しい組み合わせ〈出来事=小さい創発〉を、事後的に感知する働きです。制作における創造的な働きと言えます。制作における予期は、その〈出来事 = 小さい創発〉をあらかじめ予期して手を動かす事前の働きのことで、自らのパターンに習熟してくると出てきます。予期することで(それが的中するか否かにかかわらず)事前の一手が変わり、以降の制作リズムが変容してくるのです。制作においてマンネリ化を回避し、自らを新しい状態へ導く働きをもっていると言えます。制作は、創発と予期という二つの力能が、身体やマテリアルの偶有性を伴って、次なる新しい状況を産出してゆくプロセスです。
本書では、元となった東大講義の形式を踏まえ、レクチャーとワークを交互に展開します(内容は2024年度の講義録を踏まえて加筆修正や順序の入れ替えをしています)。ワークでは、制作のなかでも特にドローイングを主な方法として採用しています。それはドローイングが、私の専門であること、場所を選ばず手軽であること、そして普遍的な制作形式のひとつだと考えたためです。ドローイング〈線、繊維、管による表現〉は、歴史的にみても多様な文化のなかに見出され、無数のモードをもっています。そうしたドローイングを、人間による営みに限定せず、人類・機械・生命といった領域へとひらいて多様な主題を設定しています。この制作論の射程を、現代社会や美術史といった現代美術の指向する狭い領域よりもはるかに広範なものとして扱えるようにするためです。
(中略)
このように本書は、制作理論とドローイングワークをめぐって、哲学、文化人類学、生命科学、数理と計算機科学、精神医学、コミュニケーション、色彩、詩、庭園、迷路、映画、音楽、編集、細胞、貝殻模様、タンパク質、機械、ロボット、AIなど、多岐にわたる領域にまたがって展開します。これは「制作」を明確に定義しようという狙いよりも、多様な領域に「制作」をアブダクション(類例の可能性を領域を超えて横へ横へと広げてゆく)しようという企図があるからです。制作はこうあらねばならないと規定するのではなく、私たちを常に制作へと導いてくれる知の横断こそが重要だと私は信じています。
また、パターン・意味・生命の制作と創発について、理論だけではなく、ドローイングをとおして経験化することも目指しています。そうした制作知の理解にとって、プロセスをトレースできるドローイングは強力な道具立てとなるでしょう。たんに作者独自のパターンを生成するだけでなく、ドローイングは可読性をもっているからです。我々はその痕跡を読み解き、作者の制作のモードを感受することができるはずです。そうした点から言えば、ドローイングは、絵画よりも多様な文化にまたがる汎用性の高い表現手法と言えるでしょう。美術教育では長らく、基礎訓練といえばデッサン(自然主義的な素描)が中心でしたが、もうひとつの基礎訓練としてドローイング(線描による即興的表現)という手法を体系化していきたいと私は目論んでいます。
最後に本書をはじめるにあたり、制作の主体について私見を述べておきます。生命の自己制作システムであるオートポイエーシスを提唱したフランシスコ・ヴァレラは、人間の認知について以下のように考えていました。認知とは、記号的表象の計算ではなく、身体行為による知覚の形成運動(感覚と運動とそれらを連関させる神経系)であると。つまり身体や手を動かし、それによって感覚を立ち上げ、その連動を神経がつくることで、知覚は絶えず形成され続けるということです。世界も〈私〉も、あらかじめ独立して与えられるのではなく、行為をとおして現れるのではないでしょうか。これが手を動かすことの決定的な力能です。これを制作に敷衍して、本書をはじめたいと思います。
〈私〉が制作するのではない、制作をとおして〈私〉は絶えず出現する。
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