ためし読み

『基礎から学ぶ修辞学 心を動かす〈説得〉の技法〉』

訳者まえがき

修辞学レトリックの力を示す具体例として、あるひとつの〈説得〉の現場を紹介したい。時は2022年、新型コロナウイルスが猛威をふるっていたころ、アメリカ合衆国の下院議員であったケイティ・ポーターが、議会審議においてやってみせた手際である。

まず質問者のポーターはホワイトボードを片手に、答弁者である疾病予防管理センター(CDC)の面々に対して、健康保険なしの場合、ウイルス検査と入院代を含む医療費がどれだけかかるか問いただす。たとえば実際のやりとりは以下のようなものだ。

ポーター  カドレック博士、保険なしで血液検査をフルで行ったときの支出についてご存じですか?
カドレック いえ、すぐにはわかりかねます。
ポーター 概算では?
カドレック 一部負担金ですか?
ポーター いいえ、現金全額負担の相場で。
カドレック わかりません。
ポーター なるほど、血液検査は36ドルです。

このあと、ポーターは淡々と検査の種類を挙げてその金額を相手に問い、負担額に関して当局の認識が甘いことを示しながら、その合計金額を算出する。

ポーター  合計で1,331ドル。これは隔離措置なしの額ですが、あれば世帯負担は4,000ドルになります。この高額負担を恐れてみなさん検査を受けたがらず、必要な治療も受けられず、ひいては近隣住民をも危険にさらしています。

さらにポーターは、不意の出費が400ドルあるだけでもアメリカ人の4割が耐えられず、3割が治療を翌年に先延ばしにしている現状を追加説明する。たいへんわかりやすい。この事実をデータに基づいて積み上げていく理路整然としたプロセスは、これから本書で解説していく修辞学に照らし合わせると、一種の〈ロゴス〉だと言えよう。

続いて、ポーターは質疑の相手を変えて本題を問い直す。

ポーター レッドフィールド博士、コロナウイルスの陽性者・陰性者についての情報がほしいですか?
レッドフィールド はい。
ポーター お金持ち限定でなく、感染可能性のあるあらゆる人の?
レッドフィールド アメリカにいる全員のです。

ここでポーターは「お金持ち限定」という感情を揺さぶる言葉をあえて用いている。これは質疑の相手のみならず、この質疑を聞いている人々にとっても重要なキーワードで、もちろん「いいえ」と答えようものなら、アメリカ独立宣言にある平等の原則にも反するところであるから、おのずから場も緊迫する。これも本書の内容を先取りすると、〈パトス〉と言うべきものだ。

そしてポーターはCDCに課せられた連邦規則を持ち出して、CDC局長(答弁者)には、公衆衛生の緊急事態において、医療上の検査・検疫・隔離・仮退院に必要な患者の治療費を、当局に肩代わりさせられる権限があることを告げる(しかも事前にそのことを当局の事務方と確認済みという用意周到さだ)。これに対して、局長は事前通告があったことはわかっているが、自分は政治家ではないからポーターの言い出した規則番号は知らなくて……とお役所らしいはぐらかしをする。

ポーター レッドフィールド博士、その現有する権限を今ここで用いて、保険の有無にかかわらず全アメリカ住民の検査費用を無料とするよう、CDCに対して働きかけますか?
レッドフィールド その、わたしに言えるのは、これからもわたくしどもは、あらゆる人々に必要な治療が受けられることを確かにするために、全力を尽くすという……
ポーター それではダメです。もう一度言います。レッドフィールド博士、あなたには今、権限があります……

ポーターは一週間前から同様の要望をほかの議員と共同で当局に届けていることにも触れるが、局長はその内容と意図は理解しつつも、権限の行使にその場では同意はせず、協議を今後も続ける等々お役所的な言い回しをするばかりで、いっこうに埒らちがあかない。そこで、ポーターは質疑のトーンを変える。

ポーター レッドフィールド博士、きっと今回の質疑には重責をお感じのことと思います。なぜなら、この質疑はわたしにとっても、そしてアメリカの全世帯のみなさんにもたいへん重いものとなるからです。

ここまでは権限の確認の話だったが、ここからは明らかに〈倫理〉の話に変わっている。相手が責任ある立場にある点には理解を示しつつ、その相手の決断には組織の責任だけでなく、アメリカ全体に対する道徳的な責任もあることを示してみせる。本書では〈エトス〉として紹介する善性を自ら示した上で、相手の人間性に訴えかけるポーターの言葉は、それまでの問い詰めるような言い方とは異なり、穏やかなものだ。局長の返答は今までと変わらないように見えて、明らかに動揺が深まっている。

レッドフィールド わたくしどもは、アメリカのあらゆる人が今このパンデミックという重大事態に必要な措置と治療を受けられるよう、努力するものでありまして、現在わたくしもHHS(アメリカ合衆国保健福祉省)と共同で、最善の運用方法が見いだせるよう尽力している最中なのであります。
ポーター  レッドフィールド博士、今考えるべきは運用方法ではありません。必要なのは、全米のみなさんが検査を受けられるように決断することなのです──

そしてポーターはとどめの一撃とばかりに、静かにゆっくりと話しかけながら、相手の心的な重荷を外しにかかる。

ポーター 負担の仕組みの運用部分は、明日に考えればいいんです。
レッドフィールド あなたは素晴らしい質問者ですね。ええ、わたしの答えはイエスです。

満点。修辞学の基礎をしっかり押さえた100点の質疑である。まさに〈ロゴス〉〈パトス〉〈エトス〉の融合からもたらされる見事な説得だ。ポーターはこのあと公衆衛生の重要性を強調して、不安な人は金銭の心配はせず医療を頼るよう呼びかけて質疑を終えるが、答弁者の局長もそれに感化されてか、最後に国会審議を聞いている人々に対して、自分の言葉で「光の当たらないひとりひとりが必要な医療上の措置を受けられること」が公衆衛生の大事な意義なのだと語り始める。

古代以来、修辞学の本領は説得にあると言われてきた。古代ローマでは政治的演説だけでなく、法廷における訴訟・弁護のためにこの技術が使われてきたという。この一連のやりとりにはその真髄が現れているが、このウイルス検査無料化を議会審議で勝ち取ったケイティ・ポーターは、実はロースクール出身で、政治家となる前には大学で法学を講じたこともある。まさにこの修辞術を古典教養かつ実践的な技術としてたたき込まれたはずの人物だ。

このように言葉によって人の心を動かし、こちらの期待する行動を相手にさせるためには、どのようにすればよいのか。その技術を解くのが本書で扱うことになる〈修辞学〉という、かつて自由学芸リベラル・アーツ七科のひとつとして重要視されたものなのである。

この本を読もうとしている人は、話す人だろうか、それとも書く人だろうか。人前で話す人なら、修辞学は目の前の相手の関心を惹きつける技術になるだろう。もし物語を書く人なら、登場人物に魅力的な演説をさせたり、事件の推理を説得力たっぷりに語らせたり、会話の主導権を握らせたりするときに、修辞学の基礎が大きな効果を発揮するはずだ。

本書の始まりは言葉の細部から始まるが、すぐに内容そのものに進んでいくので、最初でつまずかずにぜひ一気に読んでほしい。

訳者識 

基礎から学ぶ修辞学

心を動かす〈説得〉の技法

ライアン・N・S・トッピング=著
大久保ゆう=訳
発売日 : 2026年1月24日
2,000円+税
四六判・並製 | 224頁 | 978-4-8459-2508-7
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