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書評『そして映画館はつづく あの劇場で見た映画はなぜ忘れられないのだろう』矢田部吉彦

劇場スタッフ、配給会社、関連機関、映画人の言葉から、いま改めて「映画館」について考える『そして映画館はつづく あの劇場で見た映画はなぜ忘れられないのだろう』。新型コロナウイルスに伴う一連の混乱において、人々が集う「場」がたびたび話題になる昨今。本書では「映画館」という場所のこれまでのあり方と今後のあり方や、広く「映画」と「上映」をめぐる現状について、多くの方々から言葉を集めました。
本書をめぐって、東京国際映画祭シニア・プログラマーの矢田部吉彦さんによる書評を公開します。

映画と観客、映画館とコミュニティに対する深い洞察

 

「そして映画館はつづく」というこの書名は、当然ながらアッバス・キアロスタミ監督の『そして人生はつづく』を連想させるものであり、ここでは「人生」が「映画館」と置き換えられている。いみじくも映画館と人生を同等に考える僕のような人間には、まさに生きる証が語られているということに他ならない。異常事態となった2020年は、映画館(=人生)のあり方についてとことん考えさせられた1年であった。そんな激動の1年の記録としても、この上なくタイムリーな1冊である。

2020年に映画館がどのような対応を迫られたかという記録を収めた点で既に貴重であるが、さらに長期的視点に立った構成が本書の特徴である。まずは全国から12の映画館/ミニシアターをピックアップし、個々の成り立ちを振り返り、いかなる人が関わっており、どのような考えのもとに作品が選ばれ、観客に届けられているか、という歴史や姿勢が語られる。現状を分析して未来を見通すためには、歴史を振り返ることが重要なのだ。

かくして、本書はミニシアターの雄である「ユーロスペース」の支配人・北條誠人氏へのインタビューから始まる。80年代の設立期から、90年代のミニシアターブームやゼロ年代の観客のシニア化について、そして東日本大震災後は作品選定を通じて映画館の社会的コミットメントが問われるようになったという語りは、簡潔にして明解な現状の総括であり、ユーロスペースに留まらずミニシアター業界全体の空気を総括して見事な導入となっている。

映画館は人生であり、映画館は人である。北條氏の考えが「ユーロスペース」の編成に反映され、館の個性が決まってくるのと同じように、全国の映画館の作品編成担当者の魅力がそのまま映画館の魅力へと直結している様が実感できる。第1章の映画館紹介インタビューを読み進めるうち、映画館が人格を持った存在として迫ってくるのだ。
とはいえ、大分の「シネマ5」を経営する田井肇氏は自身と映画館の個性を重ねる風潮に抵抗を覚えると話されているので、一般化は避けなければいけないが、それだけ映画館の個性は様々であるということもできる。

さらに、東京と地方都市では取り組み方が異なってくるはずだという発言に触れると、東京在住の身としては想像を巡らした末に、その映画館を訪れたくてたまらなくなってしまう。本書は映画館の現状と未来を憂う危機の書である側面はあるものの、根っからの映画館好きにとっては、一種の旅行ガイド本でもあり、陳腐を恐れずに言えばGo to 映画館本とすることもできる。

しかし、なにやら楽観的な記述になってしまったが、状況はもちろん複雑である。映画館が閉鎖されてしまう事態に対しては、これは相手が自然災害なのであまり分析や論評を加えても始まらない。さらに、閉鎖中の映画館を救うべく立ち上がった映画人の行動を称えることが、必ずしも本書の目的とも言えない。最も重要なのは、営業再開後の映画館が現在の映画業界においていかに有効でありうるかという問いを巡る考察であろう。具体的に言えば、配信との共存は可能か?という問いに尽きる。

映画館関係者だけではなく、映画監督や女優といった作り手サイド、あるいは上映活動に携わるキュレーターの方々も登場して貴重な証言を読ませてくれるが、彼ら映画人たちは当然映画館に近い存在であり、映画館の存在意義には揺るぎない確信を抱いている。
しかし、本当にそうだろうか? そう確信していることを表明し続けていないと、もろくも崩れてしまうかもしれないという危機感があるからこその発言であるようにも感じられる。僕自身、大きなスクリーンで映画を見ることの魅力をいくら若い人の前で力説しても、伝わっているのかどうか、無力感に苛まされることが少なくない。

映画館は未来の人にとっても魅力的な場であり続けられるのであろうか、という問いに明解な答えを持っている人は決して多くはないはずである。50年代のテレビの登場のインパクトは現在の比ではないはずで、そこを生き残った映画館はIT時代にも居場所を失わないだろうというのが僕の持論なのだが、人は暗闇を求めて物語に没頭する快楽を捨てない存在であるという僕の説に根拠は希薄で説得力はない。本書は映画館の魅力を確信しながらその理由を探求する人々の証言集であり、文化的生き残りを賭けた予言の書としての側面も持つ。

映画は観客に見られることで完成すると言われるが、果たしてそれはスクリーンで見られる場合にのみ「完成」するのだろうか。あるいは、映画の見せ方、つまりプログラミング/キュレーションという行為が単体の映画がもたらす効果を超えた付加価値をもたらし得るかもしれないが、それは配信では実現できないのだろうか。
映画と映画館に特有の関係が言及される一方で、それは配信では可能でないのか、という切り返し思考を読者に迫る。自分が映画館好きであるのはよい。それを次世代にどう伝えるかが問題なのだ。明解な答えは無いが、そのためにどのような言葉を持つべきか、そしていかに行動すべきかのヒントが、本書には詰まっていると言える。

本書には未記載だが、ミニシアターエイドを濱口竜介監督と牽引した深田晃司監督から、配信と劇場の関係は画集と美術館の関係に似ているのではないかとする話を聞いたことがある。つまり、人は有名な絵をまずは画集で知るのであり、やがて美術館で「本物」の絵に接し、そのふたつの体験はいずれも貴重で相互補完的なものである。配信で映画を見るのは画集で絵を見る行為に似ており、映画館で映画を見る行為とは両立するものであるという例えである。なるほど、と思う。

本書に目を戻すと、例えばアンスティチュ・フランセの坂本安美氏は、映画を自分のものにするためにはスクリーンを前に孤独と対峙する必要があるが、その孤独は集団で体験されるべきものであると、師の言葉を引用する。
また、映画館とは不便な存在であるが、映画が持つ本来のクオリティーを引き出すには最も適した装置であることが配信との比較で強調され、不便さを逆手にとった存在価値を見出せるのではないかと指摘するのが映画キュレーターの杉原永純氏である。「共にスクリーンを見つめる匿名の他者の存在」が映画鑑賞体験を立体的なものにするのであり、作品の見せ方、つまり「しかるべき場所で、しかるべきタイミングで上映する」というキュレーションの極意を通じて観客へのアプローチが論じられる。
本書に通底するのは、映画と観客、映画館とコミュニティに対する深い洞察であり、映画館が我々にとっていかなる存在であるか、考えさせるきっかけとなる。

『そして人生はつづく』は、大地震に見舞われたイランの地に生きる少年たちを描き、素朴にして力強い感動作であった。別の側面では、撮るものと撮られるものの関係を曖昧にし、現実と虚構の境界で戯れる斬新な実験作である点で、見る者に大いに刺激を与えた。
一方、コロナに襲われた現在の世界において、日々の暮らしは予期せぬ展開を強いられ、我々は虚構が現実を侵食する生活を体験している。映画館で見ていた事態を、我々は眼前にしている。そして映画館が安全であることが実証されつつある今、コロナ禍こそ現実と虚構の狭間を思考する場としての映画館の重要性が増してくるとは言えまいか。
僕は2017年にすっかり大人になった『友だちのうちはどこ?』の少年たちに会う機会があった(『そして人生はつづく』はその少年たちを探す物語だ)。彼らの人生は見事に続いていた。
映画館も、必ず。

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