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『アニメーションの女王たち』 ディズニーと日本のアニメーション 片渕須直インタビュー

ビアンカ・マジョーリーやメアリー・ブレアといったウォルト・ディズニー・スタジオで活動した女性アーティストたちにスポットを当てる『アニメーションの女王たち――ディズニーの世界を変えた女性たちの知られざる物語』が、2021年2月26日に発売。ノンフィクションである本書では、『白雪姫』や『ピノキオ』、『バンビ』などさまざまな作品に関わりながらも、歴史から忘れ去られた女性たちの創造性と苦闘が明かされていく。
本書の発売を前に、『アリーテ姫』や『この世界の片隅に』などのアニメーション作品を発表してきた片渕須直に本書に関連したインタビューを実施。片渕が関わった日米合作映画『NEMO/ニモ』の話から始まり、ディズニーのアニメーターとの交流、ウォルト・ディズニーの印象の変化、日本とアメリカの制作環境の違いなどについて語ってもらった。また片渕自身が制作してきた作品の背景にある考えや、日米の制作環境の違いを経験しているがゆえの同書に登場する女性たちへの思いなども明かしている。ぜひ『アニメーションの女王たち』本編と合わせて読んでほしい。

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――本書『アニメーションの女王たち』は、ディズニー作品に関わった女性アーティストたちの軌跡を描くノンフィクションになります。片渕監督はディズニーのアーティストたちとの関わりはありますか?

片渕須直:昔、ディズニーのアニメーターの人たちと交流したことがあります。1980年代前半、僕が関係していた東京ムービー新社(現、トムス・エンタテインメント)で、アメリカとの合作映画『NEMO/ニモ』を制作していたんです。その当時、日本のアニメーションはまだ海外ではほとんど無名でしたから、『NEMO/ニモ』の日本側のエグゼクティブ・プロデューサーだった藤岡豊さんは「国際的な場に出てゆくためには、日本のスタッフにディズニーの方法論を吸収させて臨むべきではないか」と考え、その時たまたま日本に来ていた「ナイン・オールド・メン」と呼ばれるディズニーのアニメーター、フランク・トーマスとオーリー・ジョンストンに話を持ちかけたんです。『NEMO/ニモ』に関わっていた高畑勲さんや大塚康生さんたちは、フランクやオーリーの話を聞き、グレン・キーンやブラッド・バードなども非公式な立場でイメージボードを描いたりして、作品に参加していました。ちなみにこの交流の延長で、高畑さんと大塚さんは、フランクとオーリーが書いた大型本『生命を吹き込む魔法』(スタジオジブリ訳、徳間書店、2002年)の監修を担当しています。他に僕たちはアンディ・ギャスキルの話を聞き、ランディ・カートライトたちから現場的な方法論をレクチャーされたりしています。

――ディズニーのアニメーターの方から直接、制作方法などを聞いたということですね。

片渕:彼らはアニメーターとしてストーリー・ディベロップメント、つまり物語をどう発展させていくかを語っていました。脚本はあまり重要ではなく、そこに書かれていることにどんどん「動きのアイデア」を足していって、そのアイデアをプロデューサー(ナイン・オールド・メンの時代ならばウォルト・ディズニー)にいかにプレゼンテーションするかで作品ができあがってゆく、とさかんに言っていました。つまり僕が当事者たちから聞き知っていたディズニーのストーリーづくりの現場は、脚本をつくるストーリー部門にフォーカスしたこの本とは逆の側だったんです。だからこの本に書かれていることはとても新鮮でしたし、勉強になりました。

――『アニメーションの女王たち』では作品の物語を考えるストーリー部門の話、特にその中での女性アーティストの役割にスポットが当てられています。

片渕:僕らはアニメーターの人たちの話ばかりを聞いていたので、新しい発見が多かったです。それで、この本を読んでいて「そういえば」と思い出したのは、その当時の会話でも、『生命を吹き込む魔法』などの僕が読んできたディズニー関連の本でも、仕上げ部門を除けば、女性の名前が一切出てこないということでした。もちろん『NEMO/ニモ』に関わっていた時に女性のアニメーターの人と会うことはありませんでした。僕の不勉強もあるのですが、ディズニーにもいた女性のアニメーターのその個人名を知ったのはほんの3、4年前です。

ウォルト・ディズニーに対するイメージの変化

――ビアンカ・マジョーリー、グレイス・ハンティントン、レッタ・スコット、シルヴィア・ホランド、メアリー・ブレアという5人の女性が本書の中心的人物です。彼女たちのことはご存知ではなかった?

片渕:日本で展覧会が行われたこともありますし、メアリー・ブレアはもちろん知っていました。でも、他の方々のことは知りませんでした。直接関わりがあった、ディレクティング・アニメーターと呼ばれる、ストーリー・ディベロップメントを行うアニメーターの視点からだけでは、ディズニー作品を語る上で不十分だったのだなと、この本を読んで気が付きました。ストーリーがアニメーターたちによって調整されて完成画面となっていたのは確かな事実だったのですが、それ以前に存在していたストーリー部門の方々に目を向ける機会が今までなかったんです。
男性アニメーターの視点からではないディズニー・スタジオの描写に触れたのはこの本が初めてでした。僕は、男性でしかも白人のアニメーターの牙城である、というふうにしか捉えていなかった。それゆえ、「ディズニーのスタジオとはこんな場所だったのだろう」という先入観を持ってしまっていたのですが、それはそれでアンバランスになっていたんじゃないのか?と見つめ直す機会になりました。

――なるほど。では本書で描かれている、アニメーターの視点からは見えてこないディズニーの内側は新鮮だったと。

片渕:そうですね。とにかくそれまではウォルト・ディズニーという人は極めて保守的だという印象を持っていたんです。女性の作り手の存在を知りませんでしたし、黒人アニメーターについてもほとんど聞いたことがなかったので、スタジオの構成も白人の男性ばかりだったんだろうと、思っていたんです。本の中でフランク・ブラクストンという黒人のアニメーターの話が出てきますが、それは他に黒人のアーティストが全然いなかったからこそスポットが当てられているわけですし。ただ本を読んでいくと、ウォルト・ディズニーにも、意識的に女性が活躍できるようにしようとしていた部分があったようで、そこに驚きました。メアリー・ブレアのアートワークに対する反応や対応、シルヴィア・ホランドへの期待など、具体的に綴られていますよね。もちろん初めは女性が排除されており、その後も女性の作り手の扱いには大いに問題がありますが。

日本とアメリカの制作環境の違い

――戦前のディズニーにおける女性アーティストは、かなり不当な扱いを受けています。日本の環境と比べてみるとどうでしょうか?

片渕:戦後にスタートした東映動画(現、東映アニメーション)と直接比べてしまうのはよくないとは思うのですが……東映には中村和子さんや奥山玲子さんといった素晴らしいアニメーターの方々がいらっしゃり、作品においても大きな役割を果たしていました。東映では初期のタイミングから、女性のアニメーターや作り手が重要なポジションについていたと思います。

――初期のディズニーには、ディレクティング・アニメーターの役割を担う女性アニメーターはいなかったようですが、レッタ・スコットやミルドレッド・フルヴィア・ディ・ロッシ(ミリセント・パトリック)といったアニメーターが『バンビ』(1942年公開)や『ファンタジア』(1940年公開)で重要な仕事をしています。レッタは『バンビ』の猟犬、ミリセントは『ファンタジア』の悪魔チェルナボーグを描いています。

片渕:猟犬や悪魔は男性的と言える部分の作画ですよね。特に「女性らしいもの」を求められたわけではなさそうです。あるいは、重要なキャラクターから立場の高い男性アニメーターたちが自分の仕事として取っていってしまって、そうした「端役」しか彼女たちには残されていなかったのかもしれない。とはいえ、じゃあ、女性アニメーターだから女性らしいものだけ描けばよいかというとそれも違います。実写の場合は、例外的な作品を除いて男性が男性を、女性が女性を演じるものですが、アニメーションはそのような区分けはありません。アニメーションはジェンダーレスなんですね。男性的なものを女性が表現し、女性的なものを男性が描くことができるのがアニメーションであり、作画の面ではそれが重要なことだと思っています。そうすることでさまざまな視点が盛り込まれ、キャラクターや作品が画一的ではない方向へと進んでいけるからです。
でも、言うまでもないことですが、ジェンダーレスだからといって男性しかいない現場はよくないです。例えば、ディズニーは『白雪姫』(1937年公開)からずっとプリンセスを登場させているわけですが、長い間男の人から見たヒロイン像を描いてきたように思います。

――この本の中では、女性アーティストたちの歩みとディズニー・プリンセスの変化が重なり合うようにして描かれています。

片渕:プリンセスだけでなく、悪役も女性が多いですよね。『白雪姫』もそうだし、『眠れる森の美女』(1959年公開)や『101匹わんちゃん』(1961年公開)なども悪役のほうが印象に残るぐらい(笑)。あと女性たちの存在感に対して男性のキャラクターの印象が薄いのも昔のディズニー作品の特徴だと思います。『白雪姫』や『眠れる森の美女』の王子様などは本当に影が薄い。この部分も、女性アーティストがスタジオにもっといて、発言権があったら変わっていたと思う。プリンセスたちの人物造形も、男性キャラクターの内面の希薄さも、女性スタッフが重要視されなかったことの弊害なのかもしれませんね。ほぼ男性だけでつくっていることのアンバランスさが顕著に出ていると僕は考えます。

――ウォルト・ディズニーが作品の内容に関して強く力を働かせていたようですね。

片渕:ウォルト・ディズニー・スタジオに限りませんが、アメリカはプロデューサーが主体となって作品をつくることが多いんです。『NEMO/ニモ』の時に出会ったディズニー出身のアニメーターたちは「監督は調整役に過ぎない」と言っていましたし、『NEMO/ニモ』の制作では、アメリカ側はプロデューサー主導で進めようとしていて、監督主導で進めようとする日本側、高畑勲さんと齟齬が生じてしまっていました。日本とアメリカでは、つくり方が全然違うんです。
先程からディズニー・アニメーションのタイトルをいくつかあげましたが、監督の名前すぐに思い浮かびますか?

――いえ、わからないです。ピクサーだとすぐに思い浮かぶのですが。

片渕:ジョン・ラセターやブラッド・バードなどですよね。実は、彼らは『NEMO/ニモ』の時に、藤岡さんがディズニー・スタジオを訪れた際、交流があった人たちであるらしいんですよ。東京ムービー新社サイドが名刺代わり持っていった『(ルパン三世)カリオストロの城』(1979年公開)を観ていて。その時「つくり方がアメリカと違う! プロデューサー中心で進めるのではなく、監督が主体性をもって作品をつくれるんだ」と気づいたようで。そこで、監督主体のつくり方が日本からアメリカに輸出されたんだと考えています。
例えばブラッド・バードの『アイアン・ジャイアント』(1999年公開)は、アメリカのアニメーションで監督がもつ作家性を取り戻そうとした作品だと思う。ブラッドや、あとティム・バートンなどはディズニーにアニメーターとして長い期間所属できていないですよね。彼らのような存在が、長くいられないということが作品の幅をせばめていたように思いますね。ある個人が持つ作家性、オリジナリティーが発揮できるような体制になってなかった。

――プロデューサー主導だと、監督やアニメーターの作家性が表に出ないことが多いということですね。

片渕:はい。僕はもっと作り手の個人的な色あいが出てくるといいと思っていますし、個性の数がたくさんある分だけ多様な作品が生まれるべきです。社会や時代に対して最適解を出したような作品ばかりになってしまってはダメだと思う。
当時たまたま読んでいた司馬遼太郎さんの本に「ハワイの先住民の方たちが板に乗って遊んでいるうちは、その人たちの遊びだったが、アメリカに持っていくと世界に通用するサーフィンになる。アメリカという社会ではさまざまなものが普遍的であろうとして、結果的に世界に通用するものなってゆく」というようなことを言っていて。僕はそれを『NEMO/ニモ』の現場で実感しました。彼らはサーフィンをやろうとしていて、僕らは板っぱに乗ってるその土地の人なんだろうなって(笑)。でも、僕らは僕らにしかできない遊び方を持っている。日本のアニメーションがそうしたものだったからこそ、やがて海外の人たちの注目も集めるようになっていったと思うんです。大きな普遍性に統合されきらないことによって、個人の内面、作家性が作品に出てくるんだと思います。

作り手の色が出た作品

――今回片渕監督にインタビューをお願いした理由は、本書で書かれていることが「女性と想像力」をテーマにしたアニメーション映画をつくられてきた片渕監督の作品とつながるように思えたからです。「女性と想像力」についての映画を繰り返しつくられているのはどうしてなのでしょう?

片渕:個人を描きたいというのが理由のひとつです。想像力というのは閉塞感の現れだと思うんです。閉塞の中にいるからこそ、想像の中でしかもたらし得ないものを求める。想像という行為の中にその人自身と、その人の周りの状況が重なり合っていると思っているんです。だから、想像力をモチーフにすることで、個人が描けると考えていて。
それを『アリーテ姫』(2001年公開)や『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年公開)、『この世界の片隅に』(2016年公開)というように女性の立場からだけ描くことについては、自分でも「どうなのかな?」という気持ちが当然あります。もちろん男性も、閉塞感を感じているわけなので。男性主人公と女性主人公の作品をランダムにつくっていて[補足:片渕監督は『名犬ラッシー』(1996年放送)、『BLACK LAGOON』(2006年放送)、『ACE COMBAT 04』(2001年発売)など、男性を主人公にしたテレビやゲームのアニメーションを監督している]、たまたま「映画」という形をとったのが、女性主人公のものばかりだったということなのかもしれないです。

――『アリーテ姫』から『この世界の片隅に』までの片渕監督のアニメーション映画を古い順から観させていただくと、「社会」を描こうとする意識が少しずつ高まっていっているような印象を受けました。

片渕:でも、僕が描きたいのは「社会」が底に介在していたとしてもあくまでも「個人」のことなのであって、届けたいのもひとりひとりの個人としての観客の方々です。
『アリーテ姫』の原作(『アリーテ姫の冒険』)を読んだ時、「社会と個人の距離感」の話だと思ったんです。それでアニメーションにするうえでもそのことを大切にしたんですが、『アリーテ姫』を観た方から「お姫様なのになぜ自分の国を救うために戻らないの?」という感想を何度かもらったんです。童話やお伽噺のパターンとしてそのようなものが多いから、そのズレで生まれた感想だとは思うのですが……「お姫様は自分の国を守らなければいけない」という考えは、アリーテの個人として生き方を台無しにしまう。そのような感想をいただいた時、個人の内面を見つめるということが、この社会の中では、簡単には成立しないんだと感じたんです。個人としての生き方というものをしっかりと届けるために、その後の作品では『アリーテ姫』では描かなかったさまざまな外的な要素を盛り込んでいったという側面もあります。『この世界の片隅』はかなりの部分『アリーテ姫』のリメイクだと思っていますし、同じようなことを繰り返しているのは意地になっている部分もあります(笑)。

――今おっしゃっていただいたことの中に、片渕監督の作家性があるのだと思いました。だからこそ、繰り返し同じようなことを語ってしまう、と。

片渕:先程も言いましたが、作り手のひとりとしての僕個人は、作品というものは作り手の色、作家性が込められているのが理想だと思います。そして、僕は、プロデューサー主体と監督主体のつくり方の違いを実際に経験しているので、その経験をもとにこの本を読んでしまったという側面もあります。そうした目で見る時、この本で描かれた、今手がけているものを自分の作品にするため、制作現場の中での自分の役割を大きくしようとして懸命にがんばっている女性たちの姿には胸を打たれつつ、現実にはプロデューサー主導のシステムの中では、全体の中の部品以上の存在になりえないことを痛感もしてしまうわけなんです。
この本の中でストーリー部門の女性たちは、自身の内面を作品の中に持ち込み、作家性を発揮しようとしている。でも、完成した作品を観ている僕は、その後にいくつもの関門があるために、それがまったくのオリジナルな形では表面に現れずに終わってしまったという結果をも知っていて、彼女たちの姿が痛々しく映ってしまうです。
でも、その姿を知ることができたというのはとても大切な経験でした。ディズニー・アニメーションに大きな影響を与えた女性たちの存在とその仕事を知ることで、その中に大きな矛盾を孕んだものとして、また今までと違ったまなざしで作品と向き合うきっかけを与えてもらいました。

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2021年1月21日
取材・構成:フィルムアート社編集部