ピックアップ

書評『アニメーションの女王たち』 ディズニーの隠された歴史 河野真太郎

『白雪姫』から『アナと雪の女王』まで、ディズニーの夢のような世界の裏側で忘れ去られた女性たちにスポットを当てる『アニメーションの女王たち――ディズニーの世界を変えた女性たちの知られざる物語』が、2021年2月26日に刊行される。ノンフィクションである同書では、ビアンカ・マジョーリーやメアリー・ブレアといったウォルト・ディズニー・スタジオで重要な仕事を残した女性たちだけでなく、アジア系のアーティストや黒人のキャラクターなどにもふれていく。
本書の関連企画として、専修大学で教授を務める英文学者の河野真太郎の書評を公開。フェミニズムや労働という観点から『アナと雪の女王』などのディズニー作品に言及した著書『戦う姫、働く少女』をもつ河野が、本書の中で語られるウォルト・ディズニー・スタジオ内での女性たちの戦いと、同スタジオが制作してきたアニメーション作品の物語について読み解いていく。また、「政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」や#MeToo運動にも触れ、本書を起点に我々が考えていくべき問題を指摘する。ぜひ『アニメーションの女王たち』本編と合わせて読んでほしい。

* * *

『ドリーム』(2016年公開)と題された映画がある。1960年代の米ソ宇宙開発競争を背景として、NASAで働いた初の黒人女性の数学者キャサリン・ジョンソンを主人公とする伝記的映画である。
『ドリーム』の原題はHidden Figuresという。この原題にはダブルミーニングがこめられていると見るべきだろう。ひとつは「秘密の数字」という意味で、NASAの有人衛星打ち上げのためにキャサリンたちが行った計算の数字のこと。もう一つの意味は、「消し去られた人物たち」というものだ。それは、男性・白人中心的な宇宙開発の物語の中で消されてきた、黒人女性のキャサリン・ジョンソンその人のことを意味している。
本書『アニメーションの女王たち』は、ディズニー版の「消し去られた人物たち」の物語である。本書は、1930年代、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオが最初の長編作品『白雪姫』(1937年公開)をヒットさせた時代から出発して、2013年の『アナと雪の女王』、さらには『モアナと伝説の海』や『ズートピア』(ともに2016年公開)にいたるまでの、ディズニー作品に貢献をなしてきた女性アーティストたちの仕事と人生を追っていく。
ディズニーで女性初のストーリーアーティストとなったビアンカ・マジョーリー(1935年入社)、同じくストーリーアーティストであり、飛行機操縦士でもあったグレイス・ハンティントン(1936年入社)、『シンデレラ』(1950年公開)をはじめとする作品のコンセプトアーティストで、ディーズニーランドの「イッツ・ア・スモールワールド」のデザインも担ったメアリー・ブレア(1940年入社)、『バンビ』(1942年公開)で女性として初めてクレジットされたアニメーターのレッタ・スコット(1938年入社)。
ここに挙げたのは、本書で物語られる女性たちの一部に過ぎないが、これらの名前を知っているのは、一部の熱心なディズニーファンや研究者だけかもしれない。
だが、本書を通読した読者は、この女性たちがいなければ、『白雪姫』に始まって『アナと雪の女王』にいたるディズニー作品がこの世に生まれることはなかったと確信するだろう。そう、本書はディズニーの映画制作には女性「も」貢献したという物語ではない。ディズニーのアニメーション作品はこれらの女性たちがいなければ成立しなかったのであり、その意味で、本書は「ディズニーで働いた女性たちの歴史」ではなく、ディズニーのまさに「正史」なのだ。

ディズニー・アニメーションに描かれる女性たち

 最終生産物としての作品のみに焦点を当てた場合、ディズニーと女性という観点からは、どのような歴史が書けるだろうか。
まずは『白雪姫』に始まり、『シンデレラ』『眠れる森の美女』(1959年公開)の「プリンセスもの」を中心とする第一期黄金期。その後アニメーション作品が下火となった暗黒時代を経て、1990年代のいわゆるディズニー・ルネサンス期。そして『アナと雪の女王』を主軸とする、2010年代以降の第二次ディズニー・ルネサンス期。ディズニー・アニメーションの時代区分は、だいたい以上のような区分で合意されているだろう。
第一期黄金期のプリンセスたちの物語は、プリンセスたちが「運命の人」に出会い、結婚して「末永く幸せに暮らしましたとさ」という定型を持っている。
この定型は、アメリカ社会史の上では「福祉国家」に一致していると言える。アメリカ福祉国家は1930年代のニューディール政策、そしてその中心たる1935年の社会保障法によって形成されていった。「福祉国家」というのは、単に福祉が手厚い国家というだけではない。それは男性が終身雇用で働き、女性は専業主婦となるという家族の体制でもあった。
運命の人との出会いと結婚が終着点であるような物語が、そのような福祉国家の物語であったことは見やすいだろう。『白雪姫』で、外に働きに出る7人のこびとたちの家で掃除洗濯する白雪姫の姿が、「嫁入り修行」をする女性の姿であることは言うまでもない。
ディズニーアニメの「暗黒時代」が、ウーマンリブもしくは第二波フェミニズムの時代に一致しているのは偶然だろうか。1968年の公民権運動や学生運動の波にも同調して盛り上がったフェミニズムの運動は、まさに初期ディズニーが肯定した専業主婦体制を批判した。
1989年の『リトル・マーメイド』に始まるディズニー・ルネサンス作品には、そのような社会の雰囲気の変化がありありと刻印されている。『リトル・マーメイド』のアリエル、『美女と野獣』(1991年公開)のベル、『アラジン』(1992年公開)のジャスミン、『ポカホンタス』(1995年公開)のポカホンタスなど、新たな時代のプリンセスたちは、父親を中心とする彼女を抑圧する因習のもとで自由を奪われ、苦しんでいる。物語は、彼女たちの抑圧からの解放を主軸とした。
だが、「ルネサンス」期の作品にも限界はあった。彼女たちの「解放」は、あくまで男性キャラクターの助けによるものだったのだ。
その限界を乗り越えようとしたのが、1998年公開の『ムーラン』だった。主人公ムーランは、男装をして軍隊で戦う。シャン隊長と結ばれることが最後に示唆はされるが、それは付け足しにすぎない。『ムーラン』を制作したとりわけ女性たちが、最後の戦いの後にキスをさせる演出を拒んだことは、本書でも語られている。
『アナと雪の女王』は、女性の解放にもはや男性を必要としない『ムーラン』による切断の先にある。『アナと雪の女王』は、一方ではアナのハンス王子とのプロットによって、第一期黄金期のディズニー自身の作品を否定する。冒頭のアナのように、「運命の人」を待ち焦がれる態度はもはや時代遅れなのだ。『アナと雪の女王』の主題はもはや異性愛ではない。それはアナとエルサの姉妹の愛を主題とする。姉妹は英語でシスターであり、シスターフッドはフェミニズムにおける連帯の名前である。

クレジットをめぐる戦い

 以上のように、ある種直線的に発展しているように見えるディズニー・アニメーション作品が、直線的どころかいかに曲がりくねった紆余曲折を経て生み出されてきたか、作品の裏側にいかなる女性たちの努力と生が「隠されて/消し去られて」きたか。そのことを本書は教えてくれる。
まず、専業主婦の理想を伝えた──したがってフェミニズムの視点では「反動的」な──初期のプリンセスものがいかなる女性アーティストたち、つまり女性の専門職業人たちに支えられたかを知れば、それらの作品の内容の評価を考え直す必要を感じるだろう。
かつてのディズニー・スタジオがいかに男性中心的であったかは、冒頭のビアンカ・マジョーリーのエピソードがありありと伝えてくれる。彼女はディズニーで女性初のストーリーアーティストだった。1935年に彼女が入社した時点で、ディズニーで女性が働いていなかったわけではない。「仕上げ部門」では多くの女性たちが働いていた。ところが作品のクリエイションの根幹を担うような部門(ストーリー部門やアニメーション部門)は、男性に支配されていた。
ビアンカ(本書の登場人物たちは親愛の情をこめてファーストネームで呼ばれている)の出席したシナリオ会議では、現在であればパワハラと言われるであろう情景が展開される。男性の同僚たちに暴力的なダメ出しをされ、ついにはウォルト・ディズニーその人に絵をずたずたに引き裂かれる。その場から逃げ出してオフィスに閉じこもったビアンカについてウォルトが述べたとされる言葉は「これだから女性は使えないんです……ちょっとの批判も耐えられないんですから」というものだ。
ビアンカに続いたグレイス・ハンティントンも同様の経験をした。彼女の場合は、シナリオ会議以前に壁が立ちはだかった。初めてシナリオ会議に出席しようとした時、警備員が彼女を呼び止め、シナリオ会議中なので建物には入れないと言った。自分は脚本家なのだと言うグレイスに対して、警備員は「女性はシナリオ会議には出られませんよ。男性だけの会議ですので」と言ったという。
こういった困難の中で、彼女たちは必死で働いてディズニー作品に実質的な爪痕を残していった。その意味では、私が専業主婦の理想を伝えたと述べた初期のプリンセスものは、じつのところ「働く女性たち」の労働によって作りあげられていたのだ。
だが、述べたように、彼女たちは「消し去られて」いく。その消去は、極めてあからさまな水準で行われる。つまり、映画のスタッフの名前を示す、オープニングクレジットからの消去である。『白雪姫』のクレジットにはビアンカやグレイスの名は記されていない。ビアンカ・マジョーリーがようやくクレジットされて彼女の「代表作」となる『ファンタジア』が1940年に公開された時点で、彼女は男性中心の職場での戦いにすっかりすり減ってしまい、プレミアに参加せず、完成した映画を観ることもなく、鬱状態で、オフィスでポートワインの瓶を煽っていたという。
ビアンカ・マジョーリーの経験は、女性が男性中心的な社会で活躍していくことは、単に職業上の能力の問題ではなく、彼女たちの人間的な生全体の問題なのだということを伝えてくれるが、それがさらに痛感されるのは、本書の主人公といってもいいメアリー・ブレアの場合であろう。たぐいまれなる色彩感覚を備えたメアリーの仕事は、『シンデレラ』や『ふしぎの国のアリス』(1951年公開)『ピーターパン』(1953年公開)『眠れる森の美女』の世界観を決定したといっても過言ではない。そんなメアリーも、私生活においては、酒に溺れて暴力をふるうDV夫のリーに苦しめられていた。それに、息子の統合失調症発症が追い打ちをかける。
そんなメアリーの人生に一筋の光をもたらしたのは、アニメーターのレッタ・スコットとの友情、もしくはシスターフッドだったかもしれない。しかし彼女たちは「シスターフッド」がディズニー作品の中心テーマに躍り出るはるか前を生きていた。

「政治的正しさ」と作品

 この書評では、本書のディズニー「正史」としての他の部分、つまり例えばその労働運動であるとか──これについてはトム・シート『ミッキーマウスのストライキ!』(久美薫訳、合同出版、2014年)がある──、技術革新によるアニメーションの発展というテーマを扱うことはできない。
だが、非常に重要な、女性たち以外の「消去」の問題について述べておく必要がある。それは、『ファンタジア』に登場するサンフラワー、そして『南部の唄』(1946年公開)である。いずれも黒人のステレオタイプ的な表象であり、公開当時から批判され、前者は現在はカット、後者はソフトの形で入手できない状況になっている。
本書にはこれらのキャラクターと作品の事情についてもきっちり書いてある。それは、それ抜きでディズニーの一貫した歴史が書けないこともあるが、私は、ディズニーがある種の経営判断として闇に葬ったこういった「政治的に正しくない」表象を忘れないように書きとめることは、本書全体の目的(消し去られた女性アーティストたちに光を当てること)とも深い関係にあると考える。
近年、差別的な表象を改めていく流れは加速している。それは「政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」対「表現の自由」という、私に言わせれば間違った対立となって論争を過熱させている。確かに、差別的な表現を、そのまま問題のないものとして流しつづけることは認められない。だが、それが「なかったこと」にされてしまうことには、私は危惧を抱いている。
なぜなら、そのような形で過去の表現が消し去られる時に、そこで前提とされているのは、現在の視点が最も正しい、という考えだからだ。これは、政治的正しさは時代によって変わる相対的なものだから、どんな表現も免罪されるべきだという意味ではない。そうではなく、そのように価値観と基準が変わることを認めないところに、文化の成長はないと思えるからだ。本書の結論近くで著者のホルトも述べるように、「今は温かい賞賛を得ている作品でも、20年後には、必要な視点や感覚が抜けているとみなされるかもしれない」という視点が不可欠なのだ。

#MeToo時代のディズニー・アニメーション

 そのような視点抜きでは、現在の達成とその「正しさ」は絶対化され、それ以上の変化や成長は望めなくなるだろう。だからこそ、過去の、現在の視点からすれば「正しくない」表現も、消し去られるのではなく常に批評を加えられるべきなのだ。
本書が『アナと雪の女王』が代表する第二次ディズニー・ルネサンスの輝かしい達成を感動的に物語るときに間違いなく存在するのは、そのような視点だ。
『アナと雪の女王』は確かに、ディズニーにおける女性アーティストたちの「解放」の物語の、クライマックスである。女性監督のジェニファー・リーが共同監督を務めた『アナと雪の女王』は、「ガラスの天井」ならぬ「セルロイドの天井」を二つの点で破った。ディズニーの女性監督が初めてアカデミー賞を受賞したこと、そして女性監督の作品が史上初めて興行収入10億ドルを超えたことによって。
何よりも感動的なのは、アナとエルサを姉妹にするというアイデアによるブレイクスルーの後、ジェニファー・リーがその設定を深めるために行った「姉妹サミット」である。英語では「シスター・サミット」。そこでは、1930年代にビアンカ・マジョーリーたちが経験したのとは逆に、女性だけが参加し、女性だけが発言権をもった。そのような会議から生み出された『アナと雪の女王』は、リーをはじめとするその会議の出席者だけの業績ではなかっただろう。それは、ビアンカ・マジョーリーやメアリー・ブレアをはじめとして、ディズニーで、そしてハリウッドでそれまで苦闘してきた名もなき(名を奪われた)女性たちの達成だった。まさに、シスターフッドの達成だった。
これは、2017年にハーヴェイ・ワインスタインの告発に端を発してハリウッド、そして世界に広がった#MeToo運動を準備したとも言えるし、本書『アニメーションの女王たち』それ自体が、新たに盛り上がるフェミニズムの連帯の中から生じたと言うべきだろう。
だが、示唆したように、本書は『アナ雪』はもちろん、その後のディズニーとハリウッドの状況をすべてのクライマックスとは見ない。エピローグの直前の最終章で列挙される問題点からも分かるように、ディズニーもハリウッドも、まだまだ性的な平等が達成されているとは言えない。翻って、日本のアニメーション、映画業界もまた、ハリウッドのはるか後塵を拝していることに思いを致すべきだろう。両性の平等は、いや、二つの性だけではないあらゆる性の平等は、そして性だけではなく民族、階級の平等の達成は、まだその途上にある。本書は、その途上に置かれた一里塚である。この一里塚は、ディズニーが、ハリウッドが、そして私たちの社会が確実に変化の途上にあるのだ、ということを告げてくれている。