ためし読み

『キンドレッド グラフィック・ノベル版』 訳者によるあとがき・解説

1976年のカリフォルニアに生きる黒人女性のデイナが、4代前の高祖父である白人の少年ルーファスのいる、南北戦争以前のメリーランド州の農園にタイムスリップする。彼が死んでしまえば自分は存在しなくなる。だが自分が生まれるためには、母方の先祖である黒人女性アリスを犠牲にしなくてはならない。そんな愛憎とパラドックスが交錯する原作『キンドレッド』(1979年)は、近年、再評価が著しいオクテイヴィア・E・バトラーの代表作だ。彼女の作品では異色ともいえる現実のアメリカを舞台にした作品で、SFに馴染みのない読者にも手に取りやすく、奴隷制の歴史を通して人種と社会を考えさせる内容により、アメリカでは高校や大学の授業教材として採り入れられることも多い。

その翻案(アダプテーション)である本書は、「マンガで読む……」という数多ある類書とは一線を画す、単体の優れた作品になっている。日本語の翻案という言葉には幅があり、大胆に脚色されたものや、設定だけ借用したほぼオリジナル作品なども含まれる(例えば2022年にドラマシリーズ化された『キンドレッド』は、原作を大きく改変した、よりミステリー色の強いものになっている)。だがこのグラフィック・ノベル版は、原作にとても忠実に作られている。ストーリーはもちろん、言葉の改変もほとんどない。シーン間をスムーズに繋ぐためや、会話ベースで物語が展開するメディアの特質に応じて最小限に足された台詞を除けば、ほぼすべての台詞や地の文が、原作のバトラーの言葉の引用で構成されている。とはいえ本作は、ただの原作のダイジェストでもない。言葉の取捨選択、どのエピソードをどのような順序に組み替えるかの練り上げられた編集には、訳者としても唸らされた。訳文にさまざまなフォントを使用しているのは、太字や斜体や下線や細字などでデザインされた文字をできるかぎり再現したものだ。それも海外のグラフィック・ノベルやコミックス特有の豊かな表現であり、翻案者・レタラーの腕の見せどころでもある。刊行後には読者・批評家から高く評価され、2017年のブラム・ストーカー賞グラフィック・ノベル部門最優秀賞や、コミック界のアカデミー賞と呼ばれるアイズナー賞の最優秀翻案作品賞を受賞している。

ところでそのブラム・ストーカー賞とは、ホラージャンルの作品について与えられる賞だ。タイムスリップしたデイナは、闇夜に紛れてアリスの家に向かいながら「こんなところで白人の男に出くわすのは、現代の路上でどんな暴力に遭うよりも恐ろしいことに思えた」と言うが、奴隷制下の黒人たちが強いられる、活字で読むのですらつらい過酷な暴力を視覚的に表した本書には、生々しいグロテスクな恐怖が増幅している。しかも、そのホラーはフィクションではなく、過去にあった現実のものだ。ルーファスのいる19世紀初頭をカラフルに、1970年代をセピア色のトーンで描いた制作意図は巻末資料でも語られているが、本書はこうしたグラフィック・ノベルならではの表現で、奴隷制がいかにいま・ここにある問題なのかを映し出してもいる。

本書が原作の物語世界の複雑な奥行きを削ぐことなく、新たな命を吹き込んでいる点は挙げてみるときりがない。小説では登場人物が多く読んでいて混乱しがちなところも、ひとりひとりが具体的な相貌で描かれることで、あざやかな個性をもって動きはじめる。ショートヘアで左利きのデイナはやはり、バトラー本人にそっくりだ。日雇い仕事で生活費を捻出しながら、午前2時に起床して執筆の時間に充てていたエピソードも作家本人のものであるように、半自伝的要素が多分に含まれた原作の背景をうまく取り込んでいる。優れた翻案作品は、原作に対して新たな気づきや別の視点を読者や鑑賞者に与えてくれるものだが、本書もそのひとつだ。本書の背後に原作があることを念頭において読む必要はまったくないが、興味があれば原作の小説『キンドレッド』(風呂本惇子、岡地尚弘訳、河出文庫、2021年。1992年に刊行された単行本の文庫化)も手に取ってみてほしい。

ジョン・ジェニングズとダミアン・ダフィーは、イリノイ大学で出会って意気投合して以来(ジェニングズが教員で、ダミアンが博士課程の院生だったという)、20年に渡って10作ほどの企画を共同で手がけてきた。次なるバトラーの翻案作品『種播く人の物語』(2020)では、2021年のヒューゴー賞のグラフィックストーリー部門を受賞している。メディアやポピュラーカルチャーにおける黒人の表象や、人種とアイデンティティの政治の問題に深い作家的関心をもち、黒人による/についてのアンソロジーを編んだり、Megascopeという非白人の作家によるグラフィック・ノベルを刊行するレーベルを立ち上げたりと、白人優勢のコミックス業界に風穴を開けようとする彼らの活動は、かつてのバトラーが黒人女性など皆無にひとしかったSFのジャンルで孤軍奮闘していた闘いを継承しているようでもある。そんなふたりの「血の絆」にも劣らないブラザーフッドとクラフトマンシップ、そしてバトラー作品への深い敬意によって、このグラフィック・ノベル版『キンドレッド』は生まれている。

本書の企画を実現してくださった沼倉康介さん、終始懐の深い的確なリードであたたかく訳者を導いてくださった田中竜輔さんに心から感謝します。バトラー作品の魅力と、グラフィック・ノベルというメディアがもつ可能性の両方が味わえる本書を、日本の読者のみなさんに届けられてとても光栄です。イントロダクションでオコラフォーが言うとおり、この「痛ましくも美しい」忘れられない物語が、21世紀の日本の読者の心のなかという第2の「家ホーム」を見つけられることを心より願っています。

2023年9月
小澤英実

キンドレッド

グラフィック・ノベル版

オクテイヴィア・E・バトラー=原作
ダミアン・ダフィー=翻案
ジョン・ジェニングズ=絵
小澤英実=訳
発売日 : 2023年10月26日
3,800円+税
B5判・並製 | 256頁 | 978-4-8459-2034-1
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